テレビを捨てて本を読もう

ただの本の感想、紹介、アウトプット用のブログです

ジブリ再上映の波に乗って「千と千尋」を見たので、ユング心理学的に考えてみる

こんにちは、タイトルの通り、ジブリ再上映の波に乗って千と千尋の神隠しを見て来ました。

再上映なのに新作を抑えて観客動員トップを席巻してるとか、スクリーンで見れるジブリは今しかないとか各方面で賑わってるみたいだし、恥ずかしながらジブリは「風立ちぬ」を見に行ったくらいで、実際ほとんど映画館で見たことなかったっていうのもあってこれは行かねばと、ついミーハー心をそそられて見に行ってしまいました。

皆さん散々言われていることかとは思いますが、やはり劇場で見るジブリは素晴らしいですね。DVDとか金曜ロードショーでも何回も見ているはずなんですけど、優れた作品というのは何度見ても新しい気づきが出てくるし、大画面で見るとそれだけ入ってくる情報量も違いますね。久石譲の音楽も鳥肌立つくらい素晴らしいし、絵の一コマ一コマ細部にどれだけこだわって描いているんだろうとか、アニメなのに実写以上に温かみや生々しさが感じられるような、息遣いまで伝わってきそうなジブリ作品の偉大さが一層身に染みて感じられるようです。

 

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まあこれも先日NHKの再放送でやってた「プロフェッショナル」に大分影響されているんですけどね。ブログタイトルはテレビを捨てろとか言ってる割にまあテレビも見てるんですけど、ああやって実際どんな風に映画を作ってるのかっていう予備知識があるとまた見方も変わりますね。

 

何が良いかっていうと宮崎駿作品は手放しで賞賛しても大体反対されることがないからいいですね。
まあ実際良いものは良いに違いないんですけど、宮崎駿作品ってだけである種の聖域みたいになってますからね。


特にジブリ作品の主人公の女の子達は皆本当に血が通っているようでとてもかわいいです。
千尋も美少女として描いてないと駿氏もどこかで公言していたかと思いますが、見ているうちにやけにかわいく見えてくるんですよね。
二次元には違いないんですけど溢れ出てくるこのリアリティみたいなのはなんなんでしょうね。
ジブリヒロインのかわいさについては先人たちが既に語り尽してくれていると思うのでこれ以上は広げないことにして、ちょっと真面目な方面から語ってみたいと思います。

 

 

基本的にこのブログは本ことを書くブログにしようと思っていたんですけど、最近読んだ本の影響でユング心理学の考え方にハマっているので、ちょっとそういう観点から「千と千尋」を考察してみたくなって映画のことも書いてみることにしました。

 

 ユング心理学をかじると異世界に行ったりするファンタジー系の作品についても見方が広がったりするので中々面白い学問です。
私もこの記事で書いた本に影響を受けました。

 

honwoyomimashou.hateblo.jp

 

実のところ私はジブリの中では千と千尋はそんなに好きな方ではなく、どっちかというとラピュタみたいに分かりやすい冒険活劇とか、もののけ姫みたいにおどろおどろしい戦争みたいなことやってる方が子供心には面白かったような記憶があるんですけど、大人になって改めて見てみると、これはすごく奥行きが深い物語だってことに気づかされるし、良い作品というのは一粒で何度でも美味しいっていうのはこういうことですね。

 

初めて見たのが小学生の頃だったので、作品に込められた意味とかは当時はあまり理解してなくて、それでもなんとなく雰囲気だけでも惹きこまれる世界観とかは流石だと思うんですが、それが大人になってから見ると、細部の色んな設定やらストーリーなんかも漠然とだけどこういうことかな、ってのを考えるようになって、見る年代によって面白さが変わってくる。今ままであまり真面目に見ていなかったのがすごく勿体なかったなと思いました。

 

今回考察するのは作品の中のこれはこういうことを意味している、と言いたいのではなく、単なる私の妄想です。
千と千尋については駿氏のインタビューとか作品についての解説もあまり読んだことがないし、公式な見解とは全く違うところもあるかもしれませんが、暇人の書いている戯言なのでご容赦ください。

 

でも創作に対する解釈というのは、作っている側も絶対的な正解を用意しているわけではなくて、受けてがそうだと思えばそれでいい、っていうのは最近感じるところです。
創作する側にとって表現したいことはあっても、受けてがこれはこうなんでないか、と受け取ればそれでいいし、作り手もある程度受け手に委ねてるというのは多かれ少なかれあるんではないかと思います。

この千と千尋の神隠しという物語では何を言っているのかといえば、千尋という少女の成長の物語という人もいれば、仕事について描いているという人もいて、人間の本質について描いた物語という人もいるでしょう。色んな見方はあると思いますが、別にどれが正解でもいいんではないかと思うし、全部ひっくるめて正解ともいえると思います。
まぁあまり勝手な解釈をしても駿氏から怒られるかもしれませんが・・・

 

 

1.創作における異世界とは無意識の世界への旅である

なのであくまでこういう見方をしても面白いんじゃないか、という程度のものなんですが、じゃあ私は今回千と千尋をどう見たのかというと、「魂の発見、魂の循環」ですかね。

魂とかいうと急に胡散臭くなってくるのが自分でも分かるんですが、順を追って語っていきましょう。
まず異世界に行くというのは、ユング心理学的見方をすると、自分の無意識の世界に入っていくということです。

千尋が両親と一緒にトンネルをくぐって、テーマパークの跡地と思わしきところに迷いこんだところが、そこは神々の保養所のようなところだった、というのがこの映画の導入部分ですが、今回はこの神々の世界を千尋自身の無意識の世界という考え方をします。

 

先の記事でも書いていますが、無意識とは心理学者フロイトが提唱した考えで、簡単にいえば私たちが普段自分の考えだと思って意識しているものが”自我”、反対に普段は意識しておらず目に見えない部分が”無意識”です。
私たちが普段意識している自我は私たちの心の氷山の一角に過ぎず、その水面下の無意識こそが私たちの行動を司っているというのがフロイトの考えです。

無意識のことを深層心理とか潜在意識という言い方をする場合もあれば、厳密にいうと別物ともいえるんですが、一番身近なものとしては、私たちが寝ている時に見ている夢が無意識を投影したものですね。


つまりこの映画は千尋の夢の中での出来事、壮大な夢オチという解釈の仕方も出来るかと思います。
ただそれじゃあまりにも面白くないし、ありきたりな解釈になってしまうのですが、たとえ夢の中、無意識の中での出来事だとしても、それは千尋の中で本当に起こって、現実に千尋を心に変革を起こしたと考えていきます。
フロイトとその弟子ユングも、目に見える自我の世界だけでなく、目に見えない無意識の世界に目を向けることの重要性を説いてきました。


こうして心の世界の中で色んなものが出来てきて千尋の成長に繋がっていくんですが、そもそも成長とはなんなのか、それを考えたいと思います。

 

2.千尋はなぜ小学生の女の子という設定なのか

 

成長とは何か、一応ググりました。

人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。「子供が成長する」「ひなが成長する」「経験が人を成長させる」

 

そもそもこの映画は、駿氏の知人の女の子をモデルにして作られたというのをどこかで見たことがありますが、結果的にこの映画は子供の成長について表現した素晴らしい見本になっているのではないかと思います。

成長とは文字通り体が成長することでもありますが、体の成長とは心の成長でもあります。体と心は切り離して考えるものではなく、体の組成というのは精神の組成と密接に関わっているといってもいいでしょう。
自分の性格が行動を作るのではなく、行動が性格を作るともいうように、体の変化が精神の変化にも影響を与える部分は間違いなくあるでしょうね。

 

子供は第二次性徴期という大人への入り口を経ることで肉体だけでなく心も大規模な変動の時期を迎えることになります。
第二次性徴というのはそれこそ世界の変革ともいうべき巨大な出来事です。
すごく率直な話になって申し訳ないのですが、女の子の場合早ければ小学校高学年くらいから第二次性徴が起こり始め、つまり子供を作れる大人の体へと近づいていくことになります。
つまり人間の成長というのを描くにあたって、女の子は初潮を迎える前後に渡って、色々な体の組成の変化と同時に様々な精神的な組成の変化も迎えなければいけないということで、千尋くらいの年齢の女の子は主人公として適任だったのではないでしょうか。
まあ男の子でもよかったのかもしれませんが、たまたま駿氏の知り合いの子供が女の子だったというのもあるんですかね。


ただ、ここで肉体的成長と精神的成長のミスマッチが起こりやすいのが現代社会の特徴でしょうね。私も就職活動とか転職活動で自身の成長がなんだのバカの一つ覚えのように成長という言葉を何度も使ってきたんですが、成長というのは本来そう簡単にできることではない、非常に大変なことだと思うのです。
特に子供が大人に成長する過程というのは、体はともかく精神的な面で子供と大人を分けるものは何なのかというとそれこそキリがないのでここでは深く突っ込まないようにしますが、この映画は子供の発育について、現代の核家族の限界を描いているといっても過言ではないでしょう。

 

これも先に挙げた記事でも書いたことなんですけど、心理学者の河合隼雄氏は、現代の核家族は、核家族をやり遂げるだけの力を持っていないのに、核家族になっているから、そこがとても難しい、という風に仰っています。

実際に千尋は、両親が豚に変えられてしまうというメタファーを通して、両親が自分を庇護してくれる絶対の存在ではないということを突きつけられることになります。
両親も大人も別に完璧な人間じゃないと分かる、むしろ人ですらなく豚ですからね。
大人の汚さ、醜さみたいなものを両親の中に発見してしまったということですかね。

ともかく親もただの人に過ぎない、ということに気づくのが千尋の年齢は早いか遅いかはともかく、それも大人になる過程で通過しなければならないことです。
どんな完璧に見える親でも何かしら欠点や弱さはあるものです。そういった子供が大人になっている過程で必要な色んなステップを踏んでいくのがこの映画です。

昔は一つの屋根の下に両親だけじゃなく祖父母もいて、親戚の叔父さんなんかも出入りしていたりして、両親以外の大人から日常的に色々と教わることもあったはずですが、特に最近の都会っ子あたりはそういう体験も昔に比べるとあまりないでしょう。

だからといって私も両親または妻の両親と一緒に暮らして子育てをするかといわれるとそれは嫌ですけどね。
今の社会ではそれがスタンダードであり、それに合わせて社会の在り方も変容していくと思うのでのでそれはそれでいいんですが。
どちらが良いか悪いかの問題ではないですが、今は子供の内的な発育を促す大人との触れ合いは少ないだろうなということです。


そんな中千尋は幼いながら”仕事”を通じて成長します。
やはり人を成長させるものは何かといったら仕事ですよね。
それはまあ当たり前なんですが、ここで描かれるのは両親でない大人が導いてくれることです。

昔の田舎の子供は、例えば農家だったら田植えや収穫の手伝いとか、家業をやっている家だったらそういう手伝いをしていく中で従業員や関係者など地域のおっさんおばさんと触れ合ったりして、大人の社会というものを垣間見ていたかと思いますが、最近は本格的に働くといえば早くても高校生になってバイトをするぐらいなので、もっと低い年齢で社会的体験をするということを減っているように思いますね。

この映画で千尋を導いてくれるといえば主に釜爺とリンですね。
ハクはまた後で別に語りたいのでちょっと置いときます。
私も田舎の温泉旅館に住み込みでバイトしたこともあるんですけど、この油屋はまさにああいう温泉旅館感がそのまま出てるようですごいですね。

別に温泉旅館に限ったことじゃないと思いますが、番台みたいな嫌なオッサンやその他不愛想な従業員もいる中で、一見ぶっきらぼうなようでしれっと助けてくれる釜爺や、口調はきついところもあるけどなんだかんだで世話を焼いてくれるリンとか、あぁこんな人いるいる、って感がすごく出てますよね。
そのリアルと二次元の境界のような絶妙なステレオタイプなキャラクターのさじ加減がジブリ映画は本当に上手いなと思います。

そしてああいう古い日本的職場社会って、陰湿な面やブラックな面も勿論あるんですが、長く働いていれば最初は嫌な人だった従業員も、いつの間にか仲間になっていたりする。なんというか日本の会社らしさがすごく出ていていいなと思いますね。

千尋が油屋で働く理由も、両親を元に戻して現実の世界に帰るため、というやむない形ではありますが、自分の欲のためではなく、あくまで両親を救いたい、という他者への貢献です。それを通じて結果的にお客様への貢献にも繋がり、油屋の利益にも繋がり、他者に認められることで自立心を確立していくという成長の在り方がテンプレ的に示されています。

仕事を通じた成長というのはもっと本質的で深い部分もあると思うんですが、ここではテーマから外れるのでこの辺でやめておきます。

子供の成長のためには、同年代の子供との関係も大切ですが、「導き手」となる大人の存在の重要性を上手く表現しているな思ったのが油屋でのことです。


3.”母性”=湯婆婆と銭婆?、”千尋のシャドウ”=カオナシ


釜爺やリンが優しい大人、だとすれば怖い大人の代表格は湯婆婆ですね。
もちろん子供が大人になる過程で怖い大人という存在も欠かせません。
童話のヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女を彷彿とさせるような、ザ・魔女というキャラクターですが、千尋らの前では冷徹な経営者としても面もあり、子煩悩な母親(坊が息子なのか孫なのかはよく分からないんですが)という面もあり、実に人間の多面性を象徴したようなキャラクターです。

この湯婆婆は怖い大人としての役割もありますが、また心理学でいうところの”グレートマザー”の象徴のようでもあります。
母性とは生命の根源ともいうべき絶対的な善の象徴のような面もありますが、一方、子供を愛するあまり掴んで離さず押しつぶしてしまうような負の面も持っています。
坊を溺愛するあまり軟禁してしまうところはまさにグレートマザーの負の面であり、千尋が坊を導きグレートマザーからの解放という役割を果たすとともに、千尋自身も母性に目覚める=つまり大人になるステップを踏んでいるというのも面白いところです。
駿氏はジブリヒロインを作る上で母性を意識しているというのをどっかで見た覚えがありますが、本作でもそれは発揮されていますね。

ついでに坊は一体なんなのかというと、”千尋の肥大化した自我”というところでしょうかね。
子供は得てしてわがままな面もありますが、あの巨体も千尋の子供としてのわがままな部分が大きくなってしまったもののように見えます。
千尋はそんなに両親に甘やかされてる感もないですが、逆にあまり構ってもらえず、一人っ子ゆえ一人で過ごすことも多く、もっと両親に構って欲しいという欲求が肥大化してしまったというような千尋の心理が、湯婆婆に軟禁されている坊の姿に投影されていると想像もできますね。

承認欲求の投影といえばカオナシもまさにそんな存在という風にも見えますがカオナシについては後で触れましょう。
ただ千尋は油屋での体験などを経て、子供としての自分を一歩引いたような立場から接することができるようになります。千尋自身が母性に目覚め、自我である坊を導くようになるというのはこれこそ成長というものでしょうね。


また、湯婆婆の双子の姉という設定で銭婆というキャラクターも出てきますが、ここでは湯婆婆も銭婆も同一のものとしてみなすことにします。
湯婆婆がグレートマザーの負の面とすれば、銭婆は正の面でしょうね。
グレートマザーの正の面といえば、全てを受容してくれるような絶対的母性の象徴です。

千尋は無意識世界のより深い領域、つまり沼の底へと潜っていくんですが、そこで出会うのが母性の象徴でもいうべき銭婆です。
銭婆もてっきり怖いのかと思ってましたけど、なんというかまさに田舎の実家にいるような、温かいお婆ちゃんって感じですよね。
自分の無意識の中で汚いものを見たり苦しい思いをしたり色んな体験もしたけど、心の奥深くには良いものも悪いものも越えた全てを受け入れてくれるような母性の原型の記憶があるという象徴が銭婆ということでしょう。

母親っていうと、自分も小学生くらいになってくると、よくカリカリして怒っていたり、うるさくなってきたりしてあまり母性というものを感じなくなっていったりするものだと思うんですけど、お婆ちゃんはというと何か全てを肯定してくれるような優しいイメージってあると思うんですよね。
もちろん意地悪なお婆ちゃんを見て育った人もいるとは思うんですけど、この映画では、母性の原風景的な象徴として、田舎の実家のお婆ちゃん、というイメージで銭婆が描かれている気がします。

千尋がお婆ちゃん、って実の祖母のように呼んだり、最近の子供らしく田舎のお婆ちゃんの家に行くような経験がなかったのかもしれないとも伺わせるようなところもあるんですが、思わず呼んでしまうお婆ちゃんというのがそこはかとない安心感の象徴のようです。

映画を観た人なら多くの人が感じたのではないかと思いますが、千尋の母親は正直これまでのジブリのお母さん達とは違ってあまり”母性”を感じないですよね。
別に千尋の母が千尋に対して愛情がないとかそういうんではないと思うんですけど、これも現代の核家族におけるの母性の欠落のようなものを表現してるようにも見えました。やはり子供の成長には母性というのは不可欠なものです。

千尋自身、生まれた時は母から愛情を注がれて、その記憶の原型が無意識の奥にある、ってことなんでしょうけど、銭婆との出会いは千尋にとっての「母性の発見」といえるでしょう。
これは千尋自身が母性を思い出すことでもあり、坊たちと行動を共にして母性に目覚めることでもあり、また、銭婆というグレートマザーがカオナシという心の闇を受け入れてくれることもそうです。

カオナシについてもこの映画では重要なファクターかと思いますが、カオナシは人間の色んな欲を象徴した、千尋の心の闇ともいうべき存在ですね。
カオナシは子供の頃見た時はなんなのかよく意味が分からなかったんですが、大人になってから見ると結構分かりやすいですね。
なんであんなに汚い場面も描くんだろうと思っていたんですが、人間の心の汚い面を描きたかったんでしょうね。

千尋カオナシとの対峙を経たあとで自身の無意識領域の深いところへと潜っていきますが、無意識へと潜る過程では自分の心の闇、見たくもない部分も通過しなければならないことを表しているのではないかと思います。
子供も大人になる過程で汚いものや醜いものも見なければなりません。
そんな自分の中の嫌な部分、認めたくないような部分、つまりユング心理学でいう影(シャドウ)がカオナシではないでしょうか。

人の無意識は時に汚かったり見にくかったり、見たくもないようなネガティブな想念もたくさんある一方、それに打ち勝てるような美しいものもあります。

 

4.ハク=千尋の魂の投影

心の中の美しいもの、例えば釜爺もいった「愛」ですね。
愛とはいってもこの映画での愛はロマンスとかそういう安っぽい意味の愛ではありません。
千尋カオナシという自分のシャドウを克服して、沼の底という無意識の奥底まで行くことが出来たのも、ひとえに両親のため、ハクのためなんですけど、このハクというキャラクターは色んな見方ができるキャラクターだと思います。

千尋とハクの関係はあまりはっきりと恋愛という描かれ方をしていないし、実際ロマンスを描いたわけでもないと思うんですが、これは千尋の恋という見方をするのも一つの楽しみ方なのかなと思います。
もちろん実際にハクに恋しているわけではなく、ハクはあくまで象徴です。

千尋も年頃だし、そろそろ好きな男子の一人や二人いてもいい歳だと思います。転校する前の学校では密かに想いを寄せる男子もいたかもしれません。先ほどは恋を安っぽいだなんて言ってしまいましたが、恋も人が大人になる過程で通らなくてはならない出来事です。
もう叶わなくなってしまったけど、それを昇華させるために無意識の中に現れた異性像がハク、という考え方です。
心の世界でのハクとの出会いと別れは、千尋の淡い失恋を癒すための無意識下での作用という一面もあるかもしれません。
最後のハクの「振り返ってはいけない」という台詞も、過ぎたことに囚われるな、と言う風に解釈できるかもしれません。


また、無意識の中に出てくる異性というのは、自身の魂を投影したものである、というのがユング心理学の考え方です。
男は男らしく、女は女らしく、というジェンダー的な考え方を打ち破ろうという潮流は近年色んなところで発生しておりますが、男の中にも女性としての心、女性の中にも男性としての心を持ち合わせているというのはユングの時代から言われてきたことです。
この自分の中の異性像というのは、男の中の女性像はアニマ、女性の中の男性像はアニムスといいます。

また、夢の中に出てくる異性だったり、好みだと感じる異性は自分の魂を反映した相手であるともいいます。まあそこは生物学的観点から見たら遺伝子の相性とか色々あるのかもしれませんが、ユング心理学的にいうとそういうことです。

しかしここでは千尋の好みの男性像がハクとか、千尋の中の男性的部分がハクということではありません。まあもしかしたらそういう部分もあるのかもしれませんが。
なぜ人が恋をしたり異性を求めるのかというと、それはもちろん動物としての生殖的本能といえばそうですが、ユング心理学の観点では、自分の魂を反映している相手が異性であり、その異性を大切にすることが自分の魂を大切にすることであるからです。
いつの時代もロマンチックな恋愛物が好まれるのは、やはり人は無意識に自分の魂を探求したいということもあるのかもしれません。
千と千尋について別の言い方をすれば、ハクとの出会いは自分の魂との出会いともいえるでしょう。

また無意識の中の異性像には4つの段階があると、ユングの妻であるエマ・ユングが記しています。
千尋は女性なので千尋にとっての異性像はアニムスですが、

第一段階「力のアニムス」
第二段階「行為のアニムス」
第三段階「言葉のアニムス」
第四段階「意味のアニムス」

と以上の4つの段階があります。
各段階の細かい説明は省きますが、低い段階はより原始的な男らしさや逞しさを象徴していますが、高い段階にいくほどより知性的な意味合いを帯びていきます。
ハクがどこの位置するかというと、やはり第四段階の意味のアニムスでしょうね。
アニマもアニムスも、第四段階にもなると、両性有具的な神様のようなイメージとして表れるといいます。

創作において神や精霊など神秘的存在は中性的なキャラクターとして描かれることも多いですが、こういった人の無意識も作用してのこともあるかもしれません。
ハクも男らしいというより中性的な美少年だし、そして何より神様です。

そして千尋が忘れていた記憶を呼び起こして、自分の名前、そして命の意味を教えてくれます。
2でも人の成長とは何かについて触れましたが、真の成長というのは、命の意味を知ること、つまり魂の存在を知ることではないかと思うのです。

 

5.命は流れ、循環するもの



異世界に迷い込んだ千尋が、紆余曲折の末に昔助けられた川の神様に出会い、思い出す、というのが、ストーリーそのままに最も直接的な解釈でもいいと思うんですが、そこに込められた意味というのは、無意識の奥底で忘れてしまっていた大切な思い出を思い出すということは自身の魂の発見でもあり、自分という人間は世界の色んなもの全てが繋がって生かされているということに気づくことではないか、と思いました。

先に挙げた河合隼雄氏の本の感想の中でも書いたんですけど、その中で氏が、人も動物も生きていることが全部すごくて、そういう全部の繋がりが魂ではないか、ということを仰っていたことに感銘を受けたんですが、この千と千尋の神隠しという映画も、まさにそういうことを表現しているのではないかと思います。

千尋はハクの正体を思い出しますが、一方でハクであった川はもう埋めたてられてしまっていて存在しないという残酷な真実も知ることになります。
でもハクは別れ際にまた会える、と言っています。
これはやはり万物に魂が宿るという八百万の神的な思想であったり、命の循環という考えでしょうね。

 

ハクの正体が昔千尋が溺れた川であり、その時ハクが千尋を助けてくれことを思い出すところがこの映画の一番の見せ場でもあると思うんですけど、なぜハクが川の神様なのか、海でもなく山でもなく川なのか、って考えると、やっぱり川が一番”流れ”というものを表しているような感じがするからですかね。
何せ龍にもなれるし、川っぽいです。

 

川は埋め立てられてしまっていたとしても、その水は海に流れ込んで、蒸発して大気になり、どこかを巡っているでしょう。
私たち一人ひとりに魂があり、また動物や草木、その辺の石ころ一つ、あらゆる存在にまで魂が宿っているなら、結局全ては一つの魂です。

忘れてしまったと思っていても、思い出は必ず無意識の奥にあるし、無くなってしまったと思ったものも、死んでしまった人も、必ずあなたの中に存在しているから大丈夫だよ、ということをこの映画では言いたいのかな、というのが久しぶりに見て思ったことですかね。

主題歌の「いつでも何度でも」そのカップリングの「いのちの名前」もタイトルもそうだし、歌詞も改めて聞いてみるとまさにそういうことを歌っているような気がしてきました。

 

結局色んな要素があり過ぎて何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきたし、ユング心理学あんまり関係ないところも出てきてしまったんですが、それだけジブリは奥が深くて幅広いテーマを含んでる、ってことですかね。
子供の成長を通じて人間のありのままの姿や心の深淵について描いていて、ついには命や魂の在り方の真理にまで迫っている、そんな素晴らしい映画であると思います。

 

 

千と千尋の神隠し [Blu-ray]

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【感想・紹介】最高の体調/原始時代から読み解くパフォーマンスの上げ方

皆さん体調には気を遣われていますでしょうか?
何気なく普段から体調が良いとか悪いとか言いますけど、体調というのは非常に重要なことです。
体調が良いと頭が冴えて仕事の能率も上がる気がするし、悪いと頭に靄がかかったようで何事も捗らない・・・と誰にでも経験があることではないかと思います。今回読んだのは鈴木祐さんの「最高の体調」では、その体調について、どうすればより健康的で能率よく仕事をこなせる体になれるか、果ては人生の幸福を高められるかということについて、様々な研究をベースにした具体的で実践的な方法が数多く提示されています。


前々から気になっていたんですがAmazon kindleのPrime Readingで読むことが出来たのでこの機会に読みました。
今はPrime Readingから外れてしまっているようですが、Amazonでプライム会員になっているとたまにこういう掘り出しものが上がってくるから結構おすすめですね。

 

最高の体調 ACTIVE HEALTH

最高の体調 ACTIVE HEALTH

 

 

本書で言われてることは仕事のストレスや生活の乱れから来るパフォーマンスの低下を改善し、健康に楽しく生きよう、ってことなんですが、実際のところ要点は色んな本やネット記事でも既に言われ尽くされて皆知っているであろうことです。
デジタルデバイスを使いすぎないようにしよう、運動をしよう、健康的な食事をしよう、友人を持とう、質の良い睡眠を取ろう、自然と触れ合おう、人生の価値観を定めようといったことが主な柱です。

 

上で挙げたようなことが良いというのは分かっているけど、なぜそれが必要なの?じゃあ実際具体的にどうすればいいのか?
何を食べればよくてどういう効果があるのか、人間関係を良くするにはどうすればいいのか、自然と触れ合うといっても何をすればいいのか、目標を立てるといってもどうすればいいのか、といった実践方法について、どういう方法で、どのくらいの時間やればよくて、どの程度の効果あるのか、といったことが数字で具体的に示されていることが本書の特徴です。

従来の自己啓発とかビジネス本といえば著者の実体験とか考えによるものが主流でしたが、最近は学術的根拠のあるものや科学的アプローチに基づいたものがトレンドなのですかね、こうやって権威ある論文に基づいた切り口から展開されると、斬新で説得力のあるように感じられて「よし、やろう」という気になってきます。
Youtube界隈でもメンタリストDaiGoさんとかを筆頭にこういうのが流行っていますね。

 

勿論論文のデータが絶対というわけではなく、適したやり方というのは人それぞれだと思いますが、こうやって数字として実際に提示されると分かりやすいし、一つのテーマの中でも色々な実践方法があるので、まずはとっつきやすいものからやってみるのも良いと思います。

 

本書は8章から成っていて、

  1. 文明病
  2. 炎症と不安
  3. 環境
  4. ストレス
  5. 価値
  6. 遊び

 とそれぞれのテーマに沿って展開されています。

 

テーマ広いため浅く広くともいえるのですが、健康法から運動、マインドフルネス、価値観の定め方、哲学的内容など、私たちの悩みのおおよその範囲はこの一冊でカバーしています。聞いたことのないメソッドや知識もたくさんあって、とても全部は紹介しきれないんですが、まず本書で提示されていることは、現代の便利すぎる生活と私たちの遺伝子はミスマッチだということです。
現代社会の生活習慣病うつ病、といった文明病はそのミスマッチから発生しているものであり、それを多面的な方向から改善する方法を教えてくれるのが本書です。


私たちが農耕を始めて定住をするようになったのはせいぜい1万年~2万年前、それ以前何百年間も狩猟生活をしてきた人類の歴史からいうとつい最近の出来事です。

まして電気を使えるようになって、いつでもどこでも誰とでも連絡できて、特に日本は24時間コンビニに行けば好きな食べ物がいつでも手に入る、なんていう今の生活は数百年間の人類の歴史の中で培われた人間のDNAと全く適合していません。


今まで人類の長い歴史の中で存在しなかった化学添加物の入った食べ物ばかり食べて、デジタルデバイスに囲まれた生活をしていると、そりゃ色んなところがおかしくなるわ、ってのも頷けますね。

 

 私たちが悩む人間関係からくるストレスも、生活の悪習慣からくる病気も、脳を蝕む情報過多も原始時代にはなく、原始人たちはその日のことを心配していればよかった、獲物を採って食料を確保すればあとは仲間と歌って踊ったり、大自然の中で遊んだり陽が沈んだら眠って、というとなんだか原始時代に戻りたくなるような気もします。

 

もちろん現代社会には原始時代では絶対味わえなかったような娯楽も幸せもあるし、原始時代のように猛獣や原因不明の疫病や飢餓に怯える必要もないし(疫病はまさに今流行ってるし、飢餓になることもあるかもしれませんが)、どちらが幸せかなんて言えることではないですが、あくまで現代の利便性も享受しつつ、出来るだけ遺伝子にマッチした生活をする、といういいとこ取りをしていければと思います。

 

この人類の進化論と最新医学を融合した学問のことを、進化論の父ダーウィンからとって「ダーウィニアンメディスン」というそうです。

 

食事や運動、自然との触れ合いのメリットはこの著者の「超ストレス解消法」という本にも詳しく書かれています。こちらもまたいずれ感想を書こうと思います。

 

 それでは本書の中で印象に残った点をいくつか。

  • デジタルデバイスが近くにあるだけで、認知機能が大きく低下。デバイスの存在を近くに感じただけで目の前の作業にリソースは減ってしまう。
  • 現代人のパフォーマンス低下の原因は炎症
  • 内臓脂肪が減らない限り体は炎症し続ける。
  • 平均睡眠時間が1日7~9時間の範囲を逸脱すると体内の炎症レベルが激増
  • 総摂取カロリーのほんの1%をトランス脂肪酸に入れ替えただけで悪玉コレステロールの数値が激増
  • 孤独感はタバコや肥満と同じくらい全身に炎症を起こし、早死にリスクを高める
  • 不安の機能はアラーム
  • 不安なコメントの悪影響を1つ打ち消すためには、ポジティブなコメントが6つは必要
  • 腸内細菌の重要性。腸の細胞に細かい穴が開いてしまう現象を「リーキーガット」という
  • リーキーガットはアレルギーや認知機能低下など様々な症状を起こすが、中でも重要なのは「疲れやすさ」
  • 腸内細菌を増やすには発酵食品や乳酸菌を含んだヨーグルトなど、「プロバイオティクス」というサプリもいい
  • プロバイオティクスはアレルギー症状の改善にも効果があり、8週間服用したグループは目のかゆみと鼻水の量が減った
  • また4週間飲んだグループは攻撃的な思考が減り、落ち込んでからも早く立ち直ることができた
  • 抗生物質は腸内細菌を大量に殺し、たった一回の使用で3分の1が死に、半年でもダメージが回復しなかった
  • 抗菌グッズや薬用ソープは肌の有益なバクテリアを殺す
  • 住む環境や食事を変えれば、私たちの腸内は3日でも多様性を取り戻す
  • グーグルの研究で、スナック置き場に近いドリンクバーを使った者は、遠いドリンクバーを使った者に比べて、お菓子を食べる量が69%高かった。これは環境が人に及ぼす影響の大きさを示している。
  • 孤独だった人に友達ができた場合は最大で15年も寿命が延びる傾向があった。
  • ”偽物の自然”にもリラックス効果があり、公園の写真をみた被験者は一般的な都市の光景を眺めた被験者より2倍副交感神経が活性化し、心拍数も有意に低下していた。
  • うつ病の場合は、週に1回30分ほど自然の中にいれば、自然との触れ合いがない人に比べて発症リスクが37%も低下する。高血圧の場合は、週に1回30分のラインを超えたあたりから症状が改善していく。
  • 公園や森林は、空気中に有用な微生物が漂っており、腸内フローラの改善にも重要な役割を果たす。
  • 元々私たちの脳は見知らぬ人とうまく人間関係を作れるよう設計されていない。
    ヒトの認知リソースは一回につき5人前後としか親密な人間関係を築けない。
  • ストレスを感じた時の対処法として「リアプレイザル」というものがある。
    スピーチの前など緊張してきたりストレス反応が起き始めたら「楽しくなってきたぞ!」「興奮してきたぞ!」など自分に言い聞かせるだけ。
  • 一回40分の昼寝でパフォーマンスが34%改善し、注意力は100%の完全回復。
  • 1回45分の少しキツい運動を週に2回のペースで行うのが、脳機能アップが見込める最低のライン。ストレス対策だけならウォーキング程度でも効果大。
  • 性欲障害の患者がしばらくポルノ視聴を止めたところ、興奮状態だった神経ネットワークが徐々に弱まり、元の状態を取り戻せた。
  • 現代の価値観の多様化が、私たちの未来像をぼんやりしたものにしてしまう。現代人が持つ漠然とした未来への不安を解消するためには、「未来を今に近づける」。
  • 未来との心理的距離を測る、「自己連続性」が高い人ほど不安に強く、セルフコントロール能力も高い。貯金額も25%も高い。
  • 自己連続性を高めるには自分にとっての「人生の価値」を定めること。
    自分の価値観に従って毎日を暮らす人ほど年収と貯金額が多く、「人生の価値」の強さが標準偏差から1つ高くなるごとに、貯金額は244万ずつ増えていた。
  • 「目標」は未来に達成すべきゴールのことであり、いったんクリアすればそこで終わり。成功することがあれば、失敗することもある。しかし、価値はつねに現在のプロセスなので、どこまでいっても終わりはなく、成功も失敗も存在しない。
  • 人生の幸福度を高めるものとして特に大きいのは「貢献」
  • 人間は無意識に死への恐怖を感じており、私たちが選ぶ行動の多くは、その恐怖を解消するために行われる、という「脅威管理理論」
  • 死への不安へのもっとも有効な解決策は原始仏教で、「ブッダ」が提唱した「すべての欲望はフィクションだと気づきなさい」というもの。
  • 自分の理解を超えた存在に「畏敬の念」を体験した多い被験者ほど、心理的な不安や体内の炎症レベルが低かった。
  • 畏敬の念を起こす3つの要素は「自然」「アート」「人」。理由は分からないがなぜか惹かれるもの、を基準に接してみる。
  • 1日に30~40分の瞑想を8週間ほど続ければ、薬物治療と同じレベルで不安と鬱を和らげる。
  • マインドフルネスとは、スピリチュアルや宗教的な至高体験でもない、ごく日常的な意識のあり方。むやみに瞑想に打ち込む前に、まずはマインドフルネスの感覚を掴む。
  • 人間の幸福度は遊び心と大いに相関関係がある。
    現代の遊び心を発揮しにくい環境においては、ルール作りが役に立つ。
  • ルール化に役立つものとして「if-then(イフゼン)プラン」や「メタ認知」がある。

 

ざっと挙げてみましたが、この本を読んで思ったのは、今まで色んなビジネス書や自己啓発書で言われてきたような、自分の価値観を設定することの大切さや、環境を変えることの重要性が、最新の研究によっても裏付けられているってことですかね。

 

もちろん全部が全部当てはまるわけでは無いと思いますが、おおよそ昔から本で言われてきたようなことは間違いじゃなく、自分にルールを設定して、自然との触れ合いを大事にして規則正しく生活する、という当たり前のようなことがすごく重要なんだと思った次第です。

 

【感想・紹介】こころの読書教室/心理学を知ると読書がもっと楽しくなる

前回に続き、また河合隼雄さんの本の紹介です。

ドストエフスキー夏目漱石村上春樹など、自分も最近読んだのですが、こういった解釈の難しい著名な作家の作品について、心理学の権威の立場から解説してくれている本だというので、ぜひにと思って手に取ったんですが、これもまた壮大な人間の心の世界に触れられた素晴らしい内容でした。

 

こちらは河合さんのおすすめの本を、ユング心理学の学問的視点から解釈しつつ紹介してくれるという内容なのですが、心理学の難しい内容もあるところを、河合さんらしい砕けた調子で分かりやすく解説してくださり、分かりやすいんだけど、言葉だけでは分からないような漠然とした人の心のものすごく深いところも感じられて、また人生観がちょっと変えられたような感覚すらありました。

 

こころの読書教室 (新潮文庫)

こころの読書教室 (新潮文庫)

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 2014/01/29
  • メディア: 文庫
 

 

全4章から成っていって、1章につき「まず読んで欲しい本」が5冊、「もっと読んでみたい人のために」という本が5冊ずつで、本書の中で紹介されているだけでも40冊もありますが、河合さんの紹介を読んでいると、どれもこれも読みたくなってしまってまた読みたい本が増えてしまいました。

 

 

それでは1章から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ 私と”それ”

 

”それ”とは無意識のことです。ユングの師であった精神分析の祖フロイトは、自分の心の奥底の見えない部分、「無意識」について、無意識という領域があることは分かる、でもそれがなんなのかはよくが分からない、よって「”それ”ということにしておこう」ということでドイツ語で”エス”=”それ”としたとのことです。

 

ノイローゼとか精神疾患のある人が無意識の影響を受けて急にパニックになったりした時、学術的に「自我がエスの侵入を受けて」なんて言ったりすると大変なことのようですが、「私は”それ”にやられた」くらいの感じがフロイトの言っているニュアンスに近いところみたいですね。

 

私たちが普段自分の心として意識している部分「自我」は氷山の一角に過ぎず、深層心理である「無意識」こそが心の大部分を占めていることはご存知の方も多いと思いますが、作家の方々はそういった人間の心の無意識、”それ”の部分を驚くほど上手く描いておられるというのがこの章で言っておられることです。

 

山田太一さんの「遠くの声を探して」という作品は、河合さんから見ても非常に上手く人間が精神病になっていく過程が描かれており、精神分析精神病理学についてよく勉強して描かれたものと思っていたそうですが、山田さんは全く意図せずそのように優れた作品を書き上げたそうです。

 

 

河合さんはむしろ、人の精神などについてよく勉強して、こういう風に書いてやろうなどと思うと逆に面白くなくなってしまうとも言っています。先日感想を書いた河合さんの別の著書、「人のこころがつくりだすもの」でも触れられていましたが、何か創作をするにあたっては、下手に自分の感覚を言語化して定義しようとしたりすると駄目になってしまうこともあるということですね。小説も芸術である以上、優れた作品というのは、自分の無意識の世界から湧き上がってきたものを巧みに表現したものといえるでしょう。

 

ただ、無意識の世界に触れるということは、心の深いマイナスの面に入り込んでいくことでもあり、非常にハードなことであるといいます。
村上春樹さんもそういった人間の無意識の世界を表現することに優れた作家だそうで、村上さんの作品は2章で語られますが、以前読んだ村上さんのエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」でも同じようなことを書かれていたので思い出しました。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/06/10
  • メディア: ペーパーバック
 

 

村上さんはほぼ毎日平均10km単位でランニングをしており、マラソン大会にも定期的に参加しているそうなのですが、創作というものは得てして不健康なものであり、そういった不健康なものを扱いきれるだけの体力が必要であると語っていました。

作家や芸術家やアーティストなど、創作をする人というのは得てして精神を病んだり果ては自殺してしまったり、という人も珍しくないですが、自分の無意識を扱うということはそれだけ自らに負担をかけることだというのが想像できます。


ストレス解消や健康には運動がいいとか、筋トレが最強のソリューションだとか最近も一層運動のメリットが色んな観点から語られていますが、心と体は不可分であり密接に影響しあっているものと河合さんも度々語られています。こちらの村上さんのエッセイでも、健康にいいとかそういった表面的な話を超えて運動に関する村上さんの哲学がちりばめられていて、もっと本質的なところで体を動すということは生きていく上で切っても切り離せないんだなということが感じられて大変面白かったです。


読んだ当時は作家という仕事はかなりの体力仕事というのもいまいちピンと来てなかったところもあったんですが、今回この河合さんの本を読んで今繋がってきました。
こうやって点と点が繋がって色んなことが自分の中で納得がおきていくのも読書の楽しみの一つですね。


完全に横道に逸れてしまったのですがこちらの村上さんのエッセイは小説を読んだことがない方でもおすすめです。村上さんは小説よりエッセイの方が面白いんじゃないかと思うことがあります。

 

 

ちょっと脱線しましたが、河合さんがこの章で他に語っているのが、ドストエフスキー「二重身」カフカ「変身」です。

 

変身

変身

 

 

二重人格 (岩波文庫)

二重人格 (岩波文庫)

 

 
どちらも有名な作品なのに恥ずかしながらまだ読んでいないのですが、この二つも無意識のマイナスの面にやられてしまっていく様子が上手く描かれた本とのことです。カフカの変身の方はあらすじは知っているんですが、人間が朝起きたら虫になっていた、というのがまさに自分が”それ”になってしまったことをとても上手く描いているそうです。現代のひきこもりとかがまさにこの虫のような精神状態だそうで、カフカもかなりギリギリの精神状態だったんではないかと推察されています。本当に創作をするというのは大変なことで、狂気と正気のギリギリのところで生きていることだと本書では言われています。そう思って小説を読んだりするとまた見方も変わってくる気がします。

 

例えば戦争になると意外にも精神病は極端に減って、物質的に満たされている時の方が精神病は多いというのは、戦争なんかしてると自分の内側のことなんて気にしてられなくて、外の世界と必死で関わっていなくちゃいけないど、下手に食うに困らないとどうしても自分の内に向かうことが多くなる。自分の無意識のマイナスの部分と戦うのは大変なことだけど、無意識というのは悪い面ではなく良い面も描いた作品も紹介されています。

 

無意識の良い面について、フィリパ・ピアスという海外作家の「トムは真夜中の庭で」という本を紹介しながら語られています。
こちらは児童文学だそうですが、本書の中でも度々河合さんは児童文学をおすすめの作品に上げられていますし、色んなところでも児童文学について語られているようです。
こちらも調べてみたらかなり有名な作品で、「時」をテーマにした小説の古典的作品です。海外では何度もドラマ化などもされているようです。

 

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

 

 

自分も読んだことはないのですが、おおまかなあらすじは、両親の下から知り合いの老夫婦の家に預けられたトムが、真夜中に知らない庭に迷い込んで不思議な体験をする、という、色んな創作の原型のような内容なんですが、読んでことがなくても河合さんの解説を読んでいる本当に読みたくなってきます。

本当は読みたいと思った本は出来るだけネタバレも避けたいんですが、本書の中で大体の展開がネタバレされてしまっていました(笑)
しかしトムが真夜中に不思議な庭に入り込んで女の子と出会う、でもそこは現実の時間と違うから時間の流れもぐちゃぐちゃ、など無意識の世界で異性と会うことや時間の流れなどが心理学の世界で意味することが解説してあって、内容が分かってしまってもぜひ読んでみたくなりました。

ここではトムが預けられた家のおばあさんがキーパーソンとして語られているんですが、一見家で寝ているだけのおばあさんが実は少年の心の成長をすごく助けているんではないかという河合さんの私見が素晴らしいなと思いました。

先に紹介した「人のこころがつくりだすもの」でも、河合さんは今の核家族の両親だけで子供の「たましいの導き手」になるのは難しく、親戚のおじちゃんとかが人知れずそういった役割を果たしていた、ようなことを言っておられましたが、ここで仰られていることもまさにそのようなことなんじゃないかと繋がってきました。

 

少年が心の中で感じることが心の成長であって、一緒に家にいるおばあちゃんが寝ているだけだったとしても、ただ両親が説教するだけでは教えることができないことを知らず知らずおばあちゃんに教わって、たましいが導かれているのではないかということ、そういったこともあるんじゃないかということを河合さんは言っておられます。一見何もしてないよう見えるおじいちゃんおばあちゃんが家族から煙たがられたりもする、でもただおじいちゃんおばあちゃんがそこにいてくれることが、すごく深いところで子供の心の発達に役に立っていたりする、これは効率や結果だけがますます重視されるようになった今の世の中、忘れられつつある感覚なんじゃないかと思います。でも実は目に見えないところ、無意識の世界ですごく役に立っていたりする、こういう考えは大事にしないといけないと思いました。

 

あと無意識の世界の良い面について語ったもう一冊「日本の弓術」、これまで挙げた文学系とは全く違う本ですが、弓術の達人が「撃とうとしてはいけない」、「矢を離そうと思ってはいけない」、すごく感覚的な達人っぽいことをいうけど欧米人からしたら全然分からなくて思うようにできない、でも達人は的が全く見えない真夜中でも当てることができる。いわゆるブルースリーの「考えるな、感じろ」について無意識の側面から解説してあります。
ざっくりいうと達人の域に達したような人達は無意識を上手く使っているということですかね。

 

日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)

 

 

 

「もっと読んでみたい人のために」として、主に取り上げられた5冊の他にさらに

5冊、軽く触れてあるのでメモも兼ねて挙げておきます。

 

もう一人の私

もう一人の私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたらしいぼく
 

 

 

Ⅱ 心の深み

2章でまず紹介されるのは村上春樹さんのアフターダークです。

 

アフターダーク (講談社文庫)

アフターダーク (講談社文庫)

 

 

今村上さんの長編を初期から順番に読んでいってるので、内容がネタバレされるのはちょっと・・・と思ったんですが、これもまた村上作品について理解を深めてくれるお話でした。

僕も村上作品はアマゾンの某レビューとかハルキストとか濃いファンが多いというのもあって敬遠してたんですけど、「羊を巡る冒険」とか「ねじまき鳥クロニクル」は内面的部分だけじゃなく娯楽的な部分でも結構面白くて不本意にもハマってしまいました。
先に挙げたように村上さんも非常に深層心理の世界を上手く描く作家だそうですが、そんなに意識して書いてるわけではないそうです。
村上さんの作品でよく「井戸」が出てくるのも、ラテン語でイド=”それ”ということなので、ある程度は心理学を下敷きにしておられるかもしれませんが、心理学についての本もそんなに読まれるわけではないそうですね。

 

アフターダークはまだ読んでないので詳しいところは知らないのですが、ずっと眠り続ける病気にかかってしまった姉エリさんと、眠らなくなった妹マリさんの話だそうです。姉はすごく美人なのに妹の方は普通で、そこにまた兄弟姉妹特有の葛藤があったりするそうなんですが・・・
眠らなくなった女性の話は確か短編集のTVピープルにもありましたね。そちらが原案だったんでしょうか。

 

ここでの紹介の中で印象に残ったのは、河合さんが村上作品を読んでいて思うのは、一人の人間を生かすために全世界が共鳴して動いてくれいる感じがすることが多い、ということですかね。自分は自分の身の回りのことしか分かっていないけど、自分の無意識と呼応して世界では色々なことが起こっていて、それが私を生かしてくれている。

 

内界と外界は思っている以上に呼応していて、シンクロニシティが起こることがある、というのも河合さんが度々言っておられることです。
色んなことが巡り巡って、今自分がここに生きていられる、というのはバタフライエフェクトの理論とも通ずるところでしょうか。

 

そういうことを含めてか、人一人が変わるということは、カウンセラーとしての河合さんの職業的立場から見ても、本当に全世界を変えるくらい大変なことだといいます。
人を変えるのは難しいなんてよく言うけど、人が何か変化することによって、ほんの少しの変化が周りの色んなことに影響していって、世界のどこかに人知れず大きな影響を生んでいるのかもしれない、などと思うと本当に人が変わるというのは本当に大変なことな気がしてきます。省エネのためにまず出来ることから、とかいって家を出る時は電気のスイッチを切ったりとか不要なレジ袋を貰わないとかよく言いますけど、一人の小さい行動もあながち馬鹿にできないかもしれないですね。

 

 それでこのアフターダークの中で主人公の主人公、眠らない妹マリさんは姉に対する葛藤とか色々ありつつも、眠り続ける姉をなんとかしようと色々大変なこともありながら姉が目覚めて最後に本当に深い所で癒しが起こる、と簡単にいうとそういう流れだそうなんですが、よく癒し系とかいって音楽を聴いて癒されたとか美味しい物を食べて癒されたとか言いますけど、本当の意味での癒しというのは、そういった表面的な世界でのことではなく、もっと深い次元の話であるということが描かれているわけですね。

自分の無意識と呼応して外界で起こっている姉の眠りを覚ますということ、つまり自分の無意識の深い所を癒すにはそれこそ世界を変えるほどのエネルギーが必要だということを河合さんは言っておられれます。

 

河合さんと村上さんの対談村上春樹河合隼雄に会いに行く」でも触れられているんですが、「ねじまき鳥クロニクル」で主人公が井戸の壁を抜けて妻を救おうとすることもまた、井戸="それ"(無意識)を掘り進んで、他者の無意識と繋がるくらいの強いエネルギーが必要なことだと対談の中に出てきました。
安易に結婚に幸せを求めがちだったりしますが、男女が一緒になるということはそんな生半可なことではないと、井戸を掘って、掘り進めていくと、そこで全く繋がることない壁を越えて繋がることがある、ここではコミットメントとデタッチメントという言葉をキーワードにして語られていましたが、そうやってなんとか大変な中でコミットメント=つまり関わりを持とうとすることで初めて分かることがあるということですね。

近年若い世代はデタッチメント=つまり無関心、若者の~離れのように色んなことに自分から積極的に関わりを持たなくなってきているといいますけど、結婚にしても価値観の違いだとか色んなトラブルですぐ最近はデタッチメント=離婚になってしまう、でもそこからコミットメントして掘り進めていくことで見える世界がある、ということがまた価値観を改められた本でもありました。
こちらの感想もまた別でそのうち書きたいと思います。


 

次に紹介されているのが遠藤周作さんの「スキャンダル」です。

 

スキャンダル(新潮文庫)

スキャンダル(新潮文庫)

 

遠藤周作さんも非常に著名な作家ですがこちらも恥ずかしながら全く読んだことがありません。この小説は文字通り主人公がスキャンダルの話です。主人公は自分に身に覚えのないスキャンダルに悩まされるが、それは主人公の二重人格の話なのか集団幻視の話なのか、実際何が本当なのかよく分からないようにすごく上手く描かれていて、こういった作品こそ本当のミステリー小説なのではないかと河合さんは言っておられます。

 

心の深層心理に入っていくということは自分のマイナスの部分に触れることだと一章でもありましたが、自分の深い、魂とでも呼べるような世界へ行こうと思うとその通路はスキャンダルに満ちていると、河合さんが文庫本の解説で書いておられるそうです。

ただやはり深層心理の負の面というのは悪いばかりではなくて、確かに人間は自分の心の深いところで色んな罪深いもの、悪とでもいうものを抱えているけれども、罪の中にも光があって、その罪を通じて再生できる、ということがあることも遠藤さんは描いておられるそうです。
罪を通じて再生するというとやっぱりドストエフスキーを思い浮かべますね。「罪と罰」は読んだことないですが、「カラマーゾフの兄弟」でも長男ドミートリィが罪を通じて再生していく姿が描かれていました。


ただなんでもかんでも罪が許されて光に包まれるわけでもないし、聖人といわれるような人でも心の底には悪い部分があるから駄目だというわけでもなく、結局人間をこうだと定義するんじゃなく、人間の存在自体がミステリーという見方をすればいいんじゃないかというのが河合さんの意見です。

 

言ってしまえば人間の心なんて誰にも分からない、そう言うと随分雑な気がしないでもないですが、その人がどんな人間かなんて本当のところは分からない、くらいに思っていた方が面白いんじゃないか、そんな風にも思います。今の世の中「こいつはこうだからこういう人間だ」みたいな、例えば有名人が何か不祥事を起こしたらその人の人間性についてなんでもかんでも白黒つけようとしすぎるところがありますが、外から見える人の姿なんてほんの僅かな部分にすぎない。人間を分からない物とした上で、人間の無意識に目を向ければ、それによって人間に対する洞察も深まるんではないかと思うのです。

 

次に紹介されるのが「道化の民俗学です。

 

道化の民俗学 (岩波現代文庫)

道化の民俗学 (岩波現代文庫)

  • 作者:山口 昌男
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: 文庫
 

 

 道化というとピエロとかジョーカーとか、物語を引っ掻き回す役割を思い浮かべるかと思いますが、ユング心理学では、トリックスターと呼ばれ無意識の世界で大事な意味を持つそうです。
道化とは世界中の色んな物語にも出てきて、あえて王様を騙したりして話を展開させますが、何か秩序を破壊して新しい秩序を作る時にこのトリックスターとしての役割が重要になってきます。

例えば私たちの意識というのはある程度体系だった秩序を持っているから普通に生活していけるわけだけど、それが急にめちゃくちゃなことを言いだしたりしたら困る。
昨日までは米が好きですと言っていたのに、次の日には米は嫌いです、パンが好きです、とか言い出しても周りは混乱する。
いわば私たちの自我というのは一つの秩序で形成された”王国”のようなものですが、自我というものがだんだん広がっていくためには、中心にだけ留まっていたらだめで、王様を騙したりしてその王国の秩序を破壊して新しい秩序を生み出すのがトリックスターということですね

国というのは建前では自分の国が一番で、王様自身が他の国の方が優れてるとは認めるわけにはいかない、そんな中で王様を騙したり言い包めて、代わりに他の国と交易したりしてより国を発展させたりする。下手をすると王様の怒りを買って処刑されかねないところもあるんですが、あいつはまた馬鹿なことやってる、という風にうまく立ち回る。王様は道化がいないと成り立たない、王様と道化は対の存在だとここでは言っておられます。

 

例えば、私たちも何か言いにくいことを言ったりする時とか、普段自分が言わないようなことを言ったりする時、あえて冗談で言って誤魔化してみるようなことってないですかね?あれも道化の一種なのかなーと思ったりもしました。
先日感想を書いた同じ河合さんの本「人の心がつくりだすもの」で触れた、”笑って誤魔化す”、というのも道化のやり方に近い気がしますね。
これから色んな作品に出てくる道化にも着目してみたいものです。

 

 

次に、人間の心の奥底について、マイナスの面が描かれる作品は多いですが、逆にものすごく美しいとか、すごいやさしいとか、普通の世界では考えられないような輝きを持ったプラスの面もある、それを非常に上手く描く作家として吉本ばななさんが挙げられています。今回取り上げられているのはハゴロモという作品です。

 

ハゴロモ (新潮文庫)

ハゴロモ (新潮文庫)

 

 無意識の世界には恐ろしいものがたくさん潜んでいると前章から述べられて来ましたが、河合さんがユング心理学について話す例として日本人にとって分かりやすいもので、「グレートマザー」という概念を色んな所で話しておられるそうです。少し前の時代まで「お母さん」というのは「なんだか呼びたくなるお母さん」として絶対的な善の象徴のようなものだったのが、母親の恐ろしい面としてのグレートマザー、それが心理学の世界では広く知られることとなりました。

子供の自立を妨害して自分の中に引きずり込んでしまうという、いいお母さんだけじゃなくて悪いお母さんという負の面もある、ということなんですが、心理学の発展に伴い母親の愛情の弊害の面が色々取り上げられるようになってしまった。もちろんそういった負の面もあるにはあるかもしれませんが、母性には常識では捕まえられないようなすごい母親像もちゃんとある。そんなお母さんの概念を超えたすごいお母さんを書いた本としてこの「ハゴロモ」は素晴らしい本だそうです。

 

また、吉本ばななさんは「シンクロニシティ」を描くのが非常に上手い作家でもあるそうです。先ほどアフターダークのところでも少し触れましたが、シンクロニシティは日本語に訳すると共時性、意味のある偶然ということですね。理屈では説明できないけど、偶然とは思えないような不思議な現象が同時に起こる。虫の知らせとか夢枕とかがそうですね。説明はできないけど、そういうことはとにかく起こるし、無意識の深いところに行けば行くほどよく起こるんじゃないかと河合さんは言っておられます。

 

引き寄せの法則とかマーフィーの法則は潜在意識に願望を刷り込むことで願いを叶える方法として有名ですが、自分の無意識の世界でのことが表層の世界に出てくるというのはシンクロニシティと似通ったところでもありますね。
最新の物理学の世界でも、何もない真空の中にも膨大なエネルギーがあり、過去・現在・未来の全ての出来事の記憶が真空の量子空間の中に記録されているという「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という仮説すらあるそうです。
ユングの提唱した集合的無意識も個人の経験を超えた人類共通の記憶があるといいますが、まるでアカシックレコードのようなものが本当に存在するんじゃないかと思えるようなロマンのある話ですね。

話が逸れましたが、吉本ばななさんの作品で「アムリタ」シンクロニシティが上手く書かれた作品だそうです。

 

アムリタ (上)

アムリタ (上)

 

 私も吉本ばななさんは読んだことがなかったんですが、本書を通じて読んでみたくなった作家の一人です。

 

 

この章で最後に紹介されているのは、「あの頃はフリードリヒがいた」という本です。

 

 ナチス政権時代に同じアパートに住んでいたユダヤ人の友達がいたが、迫害されて最後は・・・という暗い内容ですが、人間の中の「悪」がピタリと書いてある、まさにそんな本だそうです。人間誰しも悪人を憎みつつも自分は大丈夫だ、と思っていところがありますが、そういうところがあるとどうしてもどこか他人事のようになってしまいがちです。でもこの本はよくある昔話風などではなく、ある特定の時期に確かに起こったこととして、人間というのはこういうことがある、というのを分からせてくれるすごい作品だそうです。この訳者の上田真而子さんの訳が素晴らしく、この方が訳した児童文学はどれも素晴らしいそうです。

 

長くなりましたがここでも補足の5冊を挙げたいと思いますが、吉本ばななさんの「アムリタ」は先に挙げたので残りの4冊になります。

 

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

 

 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

  • 作者:井筒 俊彦
  • 発売日: 1980/05/20
  • メディア: 新書
 

 

ジョコンダ夫人の肖像

ジョコンダ夫人の肖像

 

 

 

Ⅲ 内なる異性

 

三章は内なる異性についてです。内なる異性とは文字通り自分の中の異性で、男性なら自分の中に女性性を、女性であれば自分の中に男性性を秘めているとうことです。
ユングは内面の異性像に強く着目した心理学者でもあります。この章ではユング心理学における人間の中の内なる異性について興味深いことがたくさん書かれているのですが、あまりにも長くなりそうなので簡単に取り上げようと思います。

 

まず内なる異性について語る前にこれまでも度々出てきた「魂」とはなんぞやというところから入っていく必要があるのですが、河合さんが支持している考え方の一つに、ユング派の分析家のジェームズ・ヒルマンという人が語った、「魂という実体があるのではない」「魂ということを大切にするということは、世界に対する自分の見方を表しているのだ」という言葉があります。これだけ見るとなんのこっちゃという感じですが、私たちは普段は二分法といって、天と地、善と悪、光と闇、というように、物事を全て分割することで世界を認識しています。

しかしそういう風に二分法ではない見方があり、それが魂だとここでは語られています。心と体にしてもそうで、心と体は本来分けて考えられるものではなく、心と体だけではないもう一つわけの分からないものがあって、それが魂ではないかという考え方です。

それでも私も完全に理解してるとは言い難いんですが、結局全ては一つなんじゃないかというのが最近思うことですね。物理学の世界では、そもそも物質とは存在せず、全てエネルギー、つまり波動によって構成されており、私たちが自分の体と認識しているものも身の回りのものも、感覚による錯覚でしかないと言います。
そう言われると自分の存在も根底から覆されてしまうような感じもしますが、私たちが認識していることって言葉によって定義された概念でしかないですからね。

特に日本人は万物に魂が宿るという言い方をして、至るところに八百万の神がいるとする多神教の考えをしますが、それも核心を突いたことのように思います。この世界に存在しているものが全て波動の集合体であるなら、本当に魂は至るところに存在しているわけですからね。全てが波動であるなら、神は一つという一神教のアプローチも分かる気はしますが。

 

話が全く逸れてしまいましたが、ユングの考えでは、内なる異性とは我々の外に投影される、つまり私たちが理想の相手と思うような人は私たちの魂を反映しているということです。
もちろん美男美女を好んだりするのは人間も動物である以上本能的部分もあるんでしょうし、生物学的観点から見ると自分と相性のいい遺伝子を持った相手を本能で見分けているということなんでしょうけど、心理学の側面から見ると、私たちが「なんであんな相手を好きになったんだろう」とか何故か惹かれてしまう、理屈抜きで好きになってしまう相手というのは、自分の魂を大事にしたいから好きになる、自分の内なる異性が投影されているという考え方です。面白いですね。
恋愛小説は小説の中でも定番中の定番ですが、なぜみんな恋愛が好きなのかもこの魂の考え方を元にするとなんだか納得できる気がしてきました。もちろん恋愛は子孫を残すための脳のバグとか、色んな見解はあるんでしょうけど、人の心として、お金とか社会的な成功とかか、外的なことで満たされていればいいと思っていても、やはりどこかで自分の魂を充たしてくれる相手を求めているということなのでしょうかね。

特に自分の中の内なる異性は夢の中にもよく出てくるそうで、魂のことをラテン語でアニマというのですが、アニマは女性名詞なので男性の場合は内なる異性はアニマ、女性の場合はアニムスといい、それぞれアニマイメージ、アニムスイメージとして夢に投影されるそうです。

何故かよく男にモテる、女性からするとなんであんな女がいつもモテるのか分からないというような女性は、アニマイメージをそのまま生きているような人で、アニマは無色透明、純粋だから色んな色に変化することが出来る、男から見ると色んなことに付き合ってくれてとても都合がよく見える。逆に女の人から見るとなぜあんな中身もないつまらない女が・・・と見える、という話も印象的でした。恋人としては最高だけど結婚すると大変なことになるそうですが。
逆に女性からするとまさにアニムスのイメージそのまま反映したような男らしい魅力的な人でも、結婚したりするとおかしくなってしまったりすることもあるようです。

 

 ここで紹介されている「七つの人形の恋物語という本は、自殺しようとしていた主人公の少女ムーシュが人形遣いのところに行き、色々な男性を模した人形と関係ができていき、ある一体の人形と恋に落ちるという話だそうです。河合さんいわく男性からすると面白い話だそうですが、別の女性作家の方はこの主人公の女の子はつまらんと言ったそうで、女性から見るとムーシュが都合の良い女のように見えてつまらないと見えることもあるようですね。

七つの人形の恋物語 (角川文庫)

七つの人形の恋物語 (角川文庫)

 

 

 

 

そのまま本の紹介の方に移りたいと思いますが、まず古典文学のとりかえばや物語を挙げられています。

 このとりかえばや物語平安時代に書かれた作者不明の物語ですが、国文学者の先生達の間ではあまり評価されていなかった本だそうです。国文学者の先生達の間では「源氏物語」がやはり原点であり最高の作品で、それ以降は源氏物語の真似をしているだけで段々つまらなくなっていく、この「とりかえばや物語」もエッチな話というか下品な話として解釈されている学者の方が多いそうなんですが、これは平安時代というジェンダーがガチガチに固定された時代において、ジェンダーフリーを唱えているんではないかというとても興味深い作品です。

現代でこそ女性も当たり前のように社会に出て活躍していますが、それはを平安時代において、女の子が男の子として育てられて出世し、男の子は女の子のように育てられて奥ゆかしく生活している、という現代で書いてもかなり物議を醸しそうな先進的な物語が生まれたというのはとても感慨深いです。
二分法で男と女、分けられてはいるものの、そう簡単に分けれるものではない、男と女はもっと交錯してるものだということが平安時代から言われているのはすごいことです。
確かに私たちは生物学的には紛れもなく男と女には区分されるんですが、それも数ある遺伝子の内染色体がほんの少し違うだけの差ですからね・・・実際私たちの内側には男もあり女もある、なんだかとても非常に神秘的な感じがする話です。

読書をするなら時の洗礼に耐えて残っている古典を読むべしと色んなところで言われているし、源氏物語とか文学の礎になっているようなものは読まないといかんとか思いつつも、高校で受けていた古典の授業がいまいち面白くなかったりしたのもあって中々食指が動かなかったんですが、そろそろ読んでみようかなという気になりましたね。

 

 

それから紹介されているのがロミオとジュリエットです。

 

 ロミオとジュリエットといえば知らない人はいないであろうというシェイクスピアの世界的に有名な作品で、純愛作品として映画化や舞台化など色んなジャンルで楽しまれていますが、これもまた単なる純愛ではなく、人の魂を見事に表現した作品であると河合さんの解説を見て改めて読んでみたくなりました。

 

こちらも色々な翻訳で多くの出版社から出版されていますが、河合さんによると松岡和子さんによる訳のものがおすすめのようです。
ロミオとジュリエットは原文では意外にも直接的な卑猥な冗談が多いらしく、日本では性的な部分を訳さなかったり言い換えてあったりするそうなんですが、こちらの訳ではそのままの表現で訳してあるとのことです。
男と女の関係だとセックスは切り離せないものとして文学でもよく描かれますし、セックスは心の繋がりとよくいうように年齢がゆくほど心と体はひとつのもとしてリファインされていきますが、ここでは青少年の不器用さというか、リファインされていない暴力的で性的な部分と、「この人のためなら死ねる」というような純粋な部分と、心と体がまだバラバラな荒々しさとでもいうところがよく表現されているといいます。
まあ自分もディカプリオの現代版の映画でしか見たことないのでよく分からんのですが、教養として小説も一度はしっかり読んでおきたいところです。

ロミオとジュリエットには元々原型となる話があって、そこでジュリエットは16歳だったのをシェイクスピアは14歳に変えたそうですが、魂に直進するすごい力は14歳でこそ表現されやすいと見抜いたのがシェイクスピアの天才性、というところが印象に残りました。
カラマーゾフの兄弟に出てくるリーザも14歳でしたが、確かに年頃の娘の激情というのがまさにこんな感じだと表れていた感じでした。女性は成熟が早いので、16歳は確かに落ち着いてしまっている気もしますね。

 

ロミオとジュリエットはまた悲恋としても知られていますが、多くの悲劇というのは善意の人が張り切って起こす、人間は人間に出来ることとして、神に祈るくらいしかないのに、下手に神に近づこうとするとろくなことがない、というのもまた印象的でした。
良かれと思ってあれこれ動いた結果悲劇になってしまうというのは多くの創作でよくある展開ですが、これも魂の働きはわれわれの常識を超えているということなんですね。

 

 次に紹介するの本が「ねずみ女房」ですが、これは本書の中で紹介されているものの中でもかなり読んでみたいと思った一つですね。
こちらは子供向けの絵本でもありますが、子供向けの作品というのは本当に大人にとっても奥が深く、楽しめるものなんだなと、この解説を読んでいるだけでも感じ取れました。

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)

 

 これはある家の中に住んでいるねずみの一家の、ねずみの奥さんが主人公の話です。家ねずみなので家の中だけが世界だと思っていて、ねずみ達は家の中以外の世界は知らないんですが、他のねずみ達は食べ物のこととかを考えていたりするんだけど、ねずみ女房だけは何か物足りなさを感じている。窓から外を眺めていたりして、ここではないどこかがあるはずだ、と思いながら暮らしてるとある日ハトが捕まえられてきてねずみ女房との交流が始まる、という物語です。

 

全く違う生き物のハトが捕まえられてやってきて仲良くなる、というのは一見すると異文化交流の話とか、そういった見方をしそうなところですが、ハトと仲良くなっていく中で、知らない世界について話を聞いたりして外の世界に興味を持ったりしつつも、ねずみ女房にはねずみ女房としての家庭での生活があったりして、最終的にはハトを逃がしてあげるんだけど・・、といったシンプルなストーリーの中にも、友情とか女性の生き方とか冒険とか多面的な見方が出来るのが面白いところです。

しかし河合さんはこれを異性との関わりという観点から解説しているのが興味深いところです。ねずみ女房には旦那がいるんだけど、ハトが外の世界について語ることについて感じることが、まるで異性に対するときめきや、なんか危ないんだけど飛び込みたい気持ちとでもいうような、恋愛を連想される感じがよく出ているといいます。

 

ねずみの旦那は女房がハトのところにばかり遊びに行っていることに腹を立て、ねずみ女房の耳に噛み付いたりするというところが不倫を思わせるような感じがしなくもないですね。
最終的にねずみ女房は外の世界があるのにハトが籠のなかに閉じ込められているのはおかしいことだと思って逃がしてあげるのですが、ハトを逃がしたことによって初めて飛ぶということが「そうか、これが飛ぶということなんだ」と身を持って理解します。

 

ねずみ女房は仲良くなったハトを失うことによって初めて飛ぶということを理解しましたが、この本の中でも、人間というのは本当に大事なことが分かる時は、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないか、という河合さんの言葉が特に心に残ったものの一つです。

何かを得ることができる者は何かを捨てることができる者だとか、何かを選択することは他の何かを捨てることだ、などと言いますが、まさにその通りではないかと思います。


私の好きな漫画「進撃の巨人」の好きな台詞の一つにも似たような台詞があったので覚えてるんですけど、進撃の巨人もまさしく失うことによって初めて分かる、そんな漫画ですね。
台詞が使われた場面は全く違いますけど、巨人との戦いで散々仲間を失って、初めて外の世界というものが分かった、あの漫画もこういった本を読んだ後だと色んな解釈が出来る奥が深い漫画ですね。

 

 

ねずみ女房はその後孫も生まれてひ孫も生まれ、見た目はねずみだから一緒なんだけど、ねずみ女房だけはどこかちょっと違った、というんですが、それは異性像を通じて魂の存在を知ったからだという解釈が非常に面白いと思いました。

 

さらにこの物語では、ハトが飛び立つところで同時に家主のおばあさんが天に召されようとしているところが描かれているそうなんですが、それによって、おばあさんが天寿を全うすることをねずみとハトまで協力しているんではないかという解釈に、読んでもないですけどいたく感動しました。

 

生きている一人一人がかけがえがないとか、昔はなんとなく単なる綺麗ごとのように思っていましたけど、河合さんがここでいう、人間が生きていることも、ねずみが生きていることも、ハトが生きていることも全部すごくて、そういうののみんなの繋がりが魂なのではないかという言葉は妙に腑に落ちたというか、理解を超えて納得出来た気がしました。

 

先に紹介した「トムは真夜中の庭で」や「アフターダーク」、「ハゴロモ」のところでも語ったこととも共通するのではないかと思いますが、全然関わりがないように見えるものが、実は繋がっていて魂を導いてくれているのではないか、自分一人を生かすために全世界が動いてくれているのではないか、結局全ては一つではないのか、それらがここで集約されているようでアハ体験のような感じでした。

 

 

この章で最後に紹介されているのが夏目漱石「それから」です。

 

それから

それから

 

 「それから」は大分前に読んだので、その時は単なる不倫の話とか、明治のインテリも現代もなんか似てるなあくらいにしか思ってなかったんですけど、いかに自分が読めてなかったか認識しました。

この頃の時代背景として、主従の関係とか、親子の関係とか友情とか、そういうものが尊ばれて、男女の恋愛などというものは下らない、といった価値観があったそうなんですが、それは東洋思想に基づいているところが大きいそうです。


もちろん西洋でも、家族が大事で、結婚までは純潔を守るべきだ、とか似たようなところはあると思うのですが、西洋は男と女、個人を区別していった先にロマンチックラブがある、でも東洋は魂は全部一緒で、だから好きな女が自分と結婚しようが親友と結婚しようが構わないといった考えがあるというのです。

 

親友の妻となった三千代を奪うわけにはいかないという社会的なペルソナと、心の底では三千代を愛しているという魂の欲求、そういったものはロミオとジュリエットなんかでも描かれていますけど、漱石は自身の体験からそういうことを描いたのではなく、漱石が奪おうとした女性というのは西洋の思想を表しているのではないかというのが面白い見解です。

 

これは加藤典洋さんという作家の方の解釈だそうですが、日本人として生きてきた漱石が西洋の文化に触れることで西洋のものがどんどん好きになってしまう、そこに魂のレベルで罪の意識があったのではないかと、また今まで全く知らなかった読み方を提示されて読み直してみたくなりました。

 

3章では、創作における「異性」について、様々な解釈の仕方が分かって、これから特に恋愛物を見る時の着眼点なんかすごく変わってきそうな気がします。

 

3章の補足の本を備忘録として挙げておきます。

 

 これはユングの奥さんが書いたアニムスとアニマについての本ですが、アニムスもアニマのイメージも四階層あって、一番上は両性有具というのが興味深いです。

 

 

 

 

荒野の狼

荒野の狼

 

 

 

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 

 

Ⅳ おのれをこえるもの

長くなりましたが最後の章です。
この章では自己実現について書いてあります。
自己実現といえば、夢を叶えるとか、なりたい自分になるとか、社会的に成功するとか、世間一般そういうイメージかと思いますが、ここで言われている意味はそれとは違います。

 

まず最初に紹介されているのがユング自伝ー思い出・夢・思想」です。ここまではほとんど文学作品が紹介されてきましたが、やっとユング自身が書いたものが出てきました。ユングは自伝を死後出版するようにして、生きている間はさなかったそうです。

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

 

 

ユングは自分の人生を「私の一生はを無意識の自己実現の物語であったと言ったそうですが、心理学において自己実現はセルフ・リアライゼーション(self-realization)といいます。
リアライズは「理解する、知る」という意味もあれば、「実現する、経験する」という意味もあります。
つまりユングにとっては、自分の無意識の世界にあるものが実現化され、それを生きることが人生だったということです。

 

ちなみにユングは師であるフロイトと決別してしまったことを原因に、精神的に不安定になり、統合失調症になってしまいます。このユングの自伝にはユング統合失調症になって幻覚が見えたり幻聴が聞こえたりした体験が書かれていますが、ユングはそれでも普通に社会生活をしていたというからすごいです。
そうやって自分自身の体験を通じて研究し、克服していく中で、ユングが経験した妄想や幻聴は、昔の世界の宗教書に書いてあることと似ているものが多いことを発見しました。

 

心の非常に深いところの体験は人類共通にあるのではないかということが段々分かってきたんですが、それでユングは無意識の深い部分には人類共通の記憶があるという集合的無意識を提唱するにいたったということですね。
ユングユングの患者たちも、統合失調症から治っていく過程で、何故か絵を描きたくなって絵を描いて、そしたら心がすごく落ちついたそうなんですが、その絵というか図がみんなとても似ていたというから驚きです。

 

深い体験をした人が治っていく時の絵というのは、円形とか十字とかいうテーマで色々絵が出てくるんですが、調べていくとチベットの宗教で使っているという「曼荼羅図」にそっくりだったということを発見します。

 

言われてみると人が自己実現に至る道というのは、瞑想によって自分の無意識の深いところまで降りていって、それを見つめることで悟りを開く宗教にも似ているし、ユングが体験したような精神病などで深い所に行ってしまう体験とも似ているし、麻薬などでトランス状態になった人の体験の話も似ているような気がします。
ユングも自分の体験したことは広い意味での宗教体験と考えられると言っているそうです。

有名なゲームFF7 でクラウドがライフストリームに呑まれ、精神が錯乱してしまったけど、そこからティファの助けを借りて本当の自分を取り戻す、というストーリーがありましたけど、あれもまさにここでいう自己実現だったのかなと今にして思いますね。ライフストリームという世界全体の記憶がある深い領域にまで落ちてしまい自我が崩壊するけど、そこから回復する過程で今まで忘れていた本当の自分が分かる・・・成長するにつれてゲームなんてただの中二ストーリーとか思ってたけど、ゲームのシナリオも結構練られて作られているのかもしれないですね。

 

河合さんの患者さんにも、「机というもの」ではなく「机そのもの」が見えてしまって、錯乱して暴れて病院に連れて行かれてしまった人がいるそうなんですが、私たちは「机そのもの」がなんかのかと言われてもよく分からないですよね。
やはり私たちは言語で規定した「~というもの」といった概念でしか認識していないだけど、本当に「そのもの」が見えてしまう人がいる。
「机そのもの」を見るなんて体験したこともないから分からないし、うっかり「机そのもの」をリアライズしてしまうとそれは大変なことではあるんですが、そういった深い体験こそが自己実現であるというのが、ユングの言っていることだと思います。

 

ちなみにユングが生きている間はユングの言った曼荼羅図のことなどあまり相手にされず、ユングの死後、ベトナム戦争を契機にこれまでの欧米的考え方を見直すという気運が高まったことで、ユングの言っていたことに気づきはじめたそうです。
西洋人は近代合理主義の考えが高まってきた中で自我のことばかりやってきたのを、東洋人は昔から自我よりも心の深い世界を知るということを自然とやってきた。

そんな時代の中で、自我の知らない無意識を探索し、無意識の世界も自我も全部ひっくるめて人格を統合するのが大切だとユングは考え、その統合を図式的に表現すると、曼荼羅図になるということが分かりました。
この自伝では「己を超えるものの」の体験が色々と書かれているそうで、かなり興味がそそられる本です。

今の日本もすっかり西欧化して、無意識だ宗教体験だのいうとちょっとアレな人ということになってしまいそうですけど、確かに自分も習慣でマインドフルネス瞑想の体験に参加したことがあったり、朝晩やっていたりするんですけど、ある時体全身で幸福を感じるというか、まさにただそこにいるだけ幸福に包まれているような感覚になったことがありました。よく生きていること自体が幸せであるとか言いますけど、あれは本当に頭で理解するものなく、体が感じるというか、体験しないと分からないというのはこういうことなんだと少し分かった気がしました。

 

 

ここで触れられている宗教体験については、「聖なるもの」という本により詳しく書いていあるということで紹介されています。

 

聖なるもの

聖なるもの

 

あらゆる宗教の根本にある、自分を超えた体験のことを、「ヌミノーゼの体験」と著者のルドルフ・オットーは定義しているのですが、 結論からいうとあまりに宗教的なことは根源的すぎて、どういうことか説明できない、というのがここで言われていることです。
本当に大事なことは言葉では言えないということですかね。

例えば禅の体験については言葉で言い表せないので「不立文字」というそうなんですが、核心については説明することができないから、なんとか説明しようとその周りのことについてかえって言葉が増えてしまうというのが面白かったです。

 

 

あとは段階的に自己実現について書いていて面白いものとして「十牛図」を紹介されています。

十牛図―自己の現象学 (ちくま学芸文庫)
 

 少年が牛を見つけて、慣らして、牛がいなくなって、人もいなくなって、と紙芝居のような感じで1から10までの絵になっているんですけど、いまいちよく分かりませんでした(笑)
これは西洋でいう錬金術の過程ととてもよく似ているそうなんですが、ユング錬金術について、化学ではなく人が自己実現していく過程を描いたものと考えたようです。

 

 

この章では学術書的な本の紹介が多かったですが、文学作品では、かのノーベル文学賞も受賞した大江健三郎さんの「人生の親戚」が取り上げられています。

 

人生の親戚 (新潮文庫)

人生の親戚 (新潮文庫)

 

 この小説はストーリーだけ聞くと、知的な障害と、半身不随になってしまった二人の息子を健気に育ててたけれども、息子が二人とも自殺してしまい、メキシコに行って聖女のように敬われるけれども、最後には癌で死んでしまうという、悲惨な人生のような話ですが、これがまさに自己実現の話だというのです。
主人公の女性まり恵さんは息子の死のことを「あれ」というそうなんですが、これが最初に出てきた「それ」に呼応していることだと言います。
悪い事ばかり起こっているように見えて、人生を実現していった、何を実現したのかというと「それ」です。
「それ」というのが人生で逃れらない「人生の親戚」だと大江さんは仰っているそうです。

この小説のタイトルからしてまず河合さんが連想したのが、夏目漱石「道草」だといいます。あの道草も、主人公の不愉快な親戚というか、養父の爺さんが出てきますが、そんな嫌な爺さんと関わりなんて持たなければいいしそう思っているのに、何故か自分でも馬鹿なことをしていると分かっていて家に招いたりお金を渡してしまったりしてます。

そういう馬鹿ばっかりしている、それが自己実現だというのがすごく大事なことだと河合さんは仰っています。

 

自己実現について補足の本として「紅水仙という本も紹介されています。

 

紅水仙

紅水仙

  • 作者:司 修
  • メディア: 単行本
 

 こちらは私生児として生まれて、母親を恨んで生きてきた作者が、母の死後母の人生について書いたという本です。子供に恨まれながら生きた母について語ったこの本について河合さんの紹介を見ているだけでもなんだか心に染み入ってくる気がします。

 

自己実現っていうと最初にいったように、いかにも夢を叶えるとかそういった解釈を普段していそうなものですが、この章を読んでちょっと固定観念を変えられた感じがします。
けど夢を叶えてプロスポーツ選手になるとか歌手になるとか、起業して金持ちになるというのも当たらずとも遠からずな気がしますね。

社会的に成功して一見華やかに見える人達も、実は色々苦悩しているでしょうしね。せっかくなりたかったはずのプロになったのに周りはとんでもない才能の持ち主ばかりいて自信もなくすし、金は貰っていても結果を出さいないといけないプレッシャーばかりかかって楽しくないし、死ぬほど練習しても年を取れば衰えて若いやつらにどんどん抜かされるし、とか脚光を浴びるだけではなく、そういった苦悩も数多くあり、そんな中で見えてくる世界こそ自己実現というのではないかと考えたりもしました。

 

あと最後にこちらも児童文学の作品でシャーロットのおくりものです。

 

シャーロットのおくりもの

シャーロットのおくりもの

 

 おのれを超えるものとして、死と再生が描かれている本です。
私たちは皆、私の命なんて言っているけど、本当は命というものは私を超えているものなんです、という言葉とても心に残りました。
これまでにも触れられてきた、色んなものが協力して私の命が成り立っているんではないかという話ともちょっと繋がってきそうな話です。

 

この章のもっと読んでみたい人のための本もいずれも面白そうなものが並んでいます。

 

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

  • 作者:白洲 正子
  • 発売日: 1992/03/04
  • メディア: 文庫
 

 

 

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中沢 新一
  • 発売日: 2004/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

脳と仮想

脳と仮想

 

 

 最後に後書きを加藤典洋という方が書かれているんですが、こちらもとても興味深いことが書かれていました。
動物は栄養溜めこむ「ストック」をするが、植物は「フロー」である。人間の本質、生き物の本質、そして心の本質は「フロー」にある。
解剖学者の説として、肉体は体壁系(皮膚・神経・筋肉)と内臓系(内臓・消化器・呼吸器・血管)に分けられるが、体壁系(脳)より内臓系(心)の方が宇宙とそのまま繋がっていて広くて深い。大脳機能を失った人間を植物人間などというが、人間の体を手袋みたいにひっくり返してみると、その姿は樹木になる。子宮が月齢に呼応しているのもそう。脳ではなく内臓こそが心であると。

腸は第二の脳というのは有名な話ですが、この後書きにも惹きつけられましたね。
読書は知識をストックするためのもの、という認識をする人も多いのではないかと思うが、読書はそこに流れているもの「フロー」に触れること、そのことは”魂”と呼ばれることもある。

うーん、分かるようで分からないような、でも最初から最後まで、どんどん新しく世界観を広げてくれるような、そんな本でありました。

 

 

【感想・紹介】人のこころがつくりだすもの/人のこころはこんなにおもしろい

皆さん河合隼雄さんをご存知でしょうか。
私も最近までよく知らなかったんですが、日本人として初めてユング心理学の心理分析の資格を取得した、日本では分析心理学の草分け的存在であり、文化庁長官にも就任された凄い方です。
肩書きを見るとなんだか偉い学者の方ように感じますが、カウンセラーとして現場で活躍されてきたこともあり、とても気さくで不思議な魅力を持った方だそうです。

残念ながら2007年に亡くなられていますが、著名な方々の間でファンも多く、私は村上春樹さんが何かの自伝で河合さんについて触れられていたのを見て興味を持ちました。
とりあえず現代日本を代表する作家の一人である村上春樹さんの主要な作品を発表順に読んでみようというのを今やっているんですが、村上さんの作品はかなりユング心理学の世界観を反映してるところがあるというので、ユング心理学について知識を深めようと思って図書館で何気なく借りてきたのがこの本でした。
中身をろくに見ずに借りてきてしまったので、てっきりユング心理学についての本かと思ったら、色んな分野の著名人の方々との対談の本だったので返そうかなとも思ったんですが、読んでみるとこれがまた非常に面白い本でした。

 

人の心がつくりだすもの

人の心がつくりだすもの

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 2008/06/18
  • メディア: ハードカバー
 

 
スイス出身の心理学者ユングの提唱したことを元にした心理学で、ユングは同時代に心理学者フロイトと共に、人間の無意識に目を向け、現代の心理学の礎を築いたといってもいい偉大な心理学者ですね。

河合さんの本は、以前読んだ、村上春樹さんとの対談をまとめた「村上春樹河合隼雄に会いにいく」という本も、多岐な事柄について語り合っていって、目から鱗が落ちるようなお話も多く非常に面白かったのですが、

こちらの本も、建築や文学、美術、音楽など、色んな分野の権威の方々との対談で、それぞれの分野が心理学的な切り口から語られていたりして、新しい気づきや発見があって、脳の未開発分野をまた新たに切り開いてくれた感じです。

この本は六章立てになっており、各章で著名人の方々の対談が行われていますが、章ごとに独立しており、それぞれの章に繋がりはありません。
章ごとに分野が変わっていくので、都度新たな分野に関しての見識が広まっていくので楽しいです。しかし章ごとに繋がりはないとはいっても、一つの本として共通するエッセンスもあり、何か漠然とした言葉にならないんだけど、それでいて大切なものに触れられたような、充実した読書体験だったと思います。(語彙力なくてすみません、しかし言葉にできないけど感じられるもの、というのが河合さんがいくつかの書籍で語られていることでもあります。)

それでは各章ごとに見ていきたいと思います。

1.箱庭の中に人類史があるー藤森昭信さんと

藤森昭信さんは建築家であり東京大学教授(現在は名誉教授)という、こちらもまた凄い方です。
心理学のプロフェッショナルと建築のプロフェッショナルの対談というなんとも異色の対談なようですが、河合さんが初めて日本に持ち込んだという箱庭療法からどんどん話が進んでいきます。
箱庭療法は箱庭の中におもちゃを自由において表現することで患者が癒されていく、という心理療法なのですが、建築家の目線から見た表現と、心理学者から見た表現に通ずるところが多々あり興味深かったです。日本には昔から庭園造りなどもあったし、元々箱庭療法が流行る土壌もあったという。

藤森さんが言っておられる中で印象に残ったのは、設計士としてものを作っていくなかでも、自分が作品として表現したいものを下手に言語化するのはするのはよくないということです。建築家の歴史を見ても、自分の想像力が発酵しきらない段階で言葉にしてしまった人は駄目になってしまっている。
人間はなんでも言葉として定義しようとするところがありますが、言葉というのは絶対的なものではなく、あくまで概念に対して勝手にラベルをつけてそう呼んでいるだけで、国によっても違えばまた時代によってもニュアンスが変わってくるので、なんでも言語化してしまうのは時に害になることもあるってことですね。
芸術でもなんでも、表現したいものは想像力が発酵するまで光を当てない、というのは同じかもしれません。
人の心の無意識を大事にしているユング派でもイメージを大事にするそうですし、こうやって読んだ本の感想を言語化して意識化してしまうことも、果たして本当にいいことなんだろうか、ってちょっと考えてしまいますね。

 

人類最初の表現行為も洞穴の中に絵を描いたりすることであって、言語は色々発達して形を変えていっても、人間のイメージというものは普遍だと思うと、もっとイメージの世界を大事にしようという気にもなってきました。

また、都市の風景や歴史的建造物などの財産は人のアイデンティティを保つ上で大事なんじゃないかということも述べられています。人間が自己をどうやって自己を認識しているかというと、目に見えるものが昨日と同じかどうかということで確認している可能性があるとのこと。朝起きて部屋の物の配置が変わっていたりすると違和感を感じてしまうこともあるように、急に隣に家が消えてなくなったりしていたら非常に不安を感じるであろうということですね。


吉武泰水先生という建築学者の方が出した本によると、吉武氏の夢の中では人間関係や時系列は錯綜しているが、自分が育った家や町の風景はいつも安定していると。
日本は地母信仰が未だに残っている唯一の先進国であり、英語やドイツ語には、「懐かしい」相当する言葉がないそうです。(ノスタルジーもまた日本人のいう懐かしいとは別物だそうです。)

風土によってもまた言語が変わってくるのも当たり前かもしれませんが、戦後日本の田園風景を崩して近代的な町並みに作り変えてしまったのも、日本人はかつての心を失った、なんて言われるのも一理あるのかもしれませんね。

 

2.ユングの高笑いー南伸坊さんと

2章は編集者、イラストレーター、漫画家などの肩書を持つ南伸坊さんという方ですね。特に知らなかったのですが、あの任天堂のゲーム「MOTHER」のキャラクターデザインも務められた方とのことです。

 

この章では主に「笑い」について対談しています。最近は笑いの良い効果についてもだいぶん当たり前に知られるようになってきましたが、笑いについての定義とか、ユーモアについても色々語られていて面白いです。
笑いの定義の一つとして南さんが気に入っているものとして「ハイエナ理論」というのが興味深いです。
これも初めて知ったんですが、ライオンの残した残飯を漁っているところに、ライオンがふいに戻ってきたりすると、ハイエナがへどもどして「えへへへ」という笑い声のような鳴き声を出す、これが由来だそうです。

笑いごとじゃないのに笑ってごまかそうとするというか、何か身の危険がある時や普通じゃない状態の時に、バランスを取るために笑ってしまう。
笑ってる場合じゃないときに主体として存在していたら、存在を脅かされてしまうから自己客観化として笑いが出てくる、難しいけど、うーんなるほど、って感じもします。

チンパンジーくらいならもしかしてら笑っているのかもしれないけど、動物は基本笑わなくて人間は笑うというのは、人間は自分を客観視しているからという説ですね。失敗した時とか馬鹿な事をした時に、笑えてきたり、笑ってごまかそうとする、またはワッと笑った時にふと何か理解出来ることがある、笑いというのはつまり自己客観化ということですね。

 

今でこそ笑いの効果も世に知られており、ここでも漫才を聞いて笑った後に血糖値を測った糖尿病患者の人はそんなに上がらなかったとか、そういった研究も紹介されていますが、ユングは笑いの効果が世に知られる前からよく高笑いをしている人だったそうです。人間は自分がいつか死ぬということを知っているから、どうしても笑いが必要だということを無意識に分かっているのでしょうか。うーん。

 

3.心と体の境界ー玉木正之さんと

3章は心と体についてです。玉木正之さんはスポーツライター、音楽評論家として著名な方です。
心はボーダーを破っていけるものという一方で、スポーツでも音楽でも、すぐなんでも心のことばかり言い出すのはアホくさいというところから始まります。

確かに精神の勝負とか気持ちを込めた演奏だとかよく言われるけど、心を込めるにはやはりまず体がなっていないとだめだと。特に日本はなんでもよく心や気持ちに持っていきたがるところがあるけど、まずしっかりした技術がなければ心も決まらない。スポーツにせよ音楽にせよ芸術にせよ、まず型を学ぶところから、まずは師匠の技を盗め、とか言いますが、心・技・体というのはそれぞれ独立したものではないのかもしれませんね。心も体もどっちがどっちか分からないくらい一緒なもの、というようなことは河合さんの色んな著作で見かける言葉です。

また、文化によるスポーツの比較から日米野球の比較の話になり、日本の体育の授業から言語性、宗教性まで、多岐に渡る話で勉強になりました。

スポーツは元々葬祭教義であり、神々の肉体に近づこうとするのがスポーツ、神々を讃えるのが音楽や芸術、神々の信託を伺うのがギャンブル(笑)と言っておられます。

 

日本の野球で肩が強いことは「強肩」というが、アメリカではストロング・アーム。
日本には肩に関する言葉が多いがアメリカにはあまりない。肩がこる、肩身が狭い、肩の力を抜く、日本にきて初めて肩がこるという言葉を知ったアメリカ人が日本にきてから肩がこるようになったという話も印象的でした。

日本人は「道」として心・技・体を一つにすることに長けているから、心と体の流動性も高く、よって肩もこりやすいし、腰痛も起こりやすい、というのも確かにあるものなんでしょうか。

 

日本人は「道」として競技をやっているから千本ノックなんかやっているけど、アメリカ人選手からみたら「苦しんでやっているわりに大して上手くなりませんね(笑)」なんていって馬鹿らしくみえる。実際にルールに則った試合の場では、「道」としてやっている日本人より、強い体、強い心として合理的にやっている欧米の方が強かったりする。もっともそこは生まれ持っての体格の違いもあるでしょうし、柔道とか日本生まれのスポーツでは日本人も強さを発揮しているところもありますが、やっぱり日本人は勝ち負け以上にスポーツを通じた心の成長や仲間意識なんてものを大事にしているところがある。先に出した心や精神の話になってしまうけど、そういった心の部分も馬鹿にできないし、大切なところだという気がします。先輩後輩の関係の強さなど、一概に良いといえない文化もまた入ってしまっていますが。

 

日本ではプロでない競技を草野球、と言いますが、アメリカでは反対にプロが芝生でやり、草野球のことをサンドロッドゲーム(空地の砂の上でやるゲーム)という。

神社も寺の境内も神聖なところとして雑草が生えていないように、草はどこにでも生えてくるものとして、日本は学校のグラウンドは神聖な教育の場として草を抜いた。こういった文化的背景なども影響していて面白いところです。

 

4.人間だけが「自分病」を持つー森村泰昌さんと

森村さんは美術家で、セルフポートレイトの作品で有名な方です。自分がモナリザ肖像画になりきった作品などが有名なようです。
色んな著名な作品のモネマネのような作品を作られている森村さんとの対談の中では、自分とはなんなのかという、アイデンティティに関する話が繰り広げられています。

人間は誰でも成長していくにつれ演技をしていて、小学生になったら小学生らしい演技、大人になったら大人らしい演技をして、とその演技をしていくうちに板についていって、それが自分の素顔になっていくんではないかというのが森村さんの見解です。

 

確かに私たちは皆その場に相応しい立ち振る舞いをして、それが一つの自分の自我として確立せれていく、というのはいわゆるペルソナですね。
職場では警察官なら警察官らしい振舞い、家に帰れば父親としての振る舞い、または夫としての振る舞い、というように誰にでもいくつもの顔はあるけど、本当の自分はどの自分なのか、って言われてみると確かによく分からない。

河合さんもそこについては、厳密に言い出すと本当の自分は誰にも分からないんじゃないだろうかと言っておられますが、本書の中や他の著作での河合さんの言葉からも考えると、心と体も切り離したものではないように、別にどの自分も本当は区別なんかなくて、どれも全て本当なのではないかという気になります。

また、そのような演技、フリをすることから美術や芸術、文化の成熟という話にまで繋がっていきます。
例えば、食べたことのないような異国の料理が最初は受け付けなかったりする、でもそれを美味しいと言っている人もいるのだから美味しいフリをして食べていたりすると、いつしか本当に美味しいと感じるようになる。
大人が美味しいといって飲んでいるビールも最初は何が美味しいのか分からないけど、美味しいというようなフリをして飲んでいたら本当に美味いしく感じてくることもまた同じですね。
子供はどうしても甘いものが好きだけど、そこのプラスアルファして、味には辛いものや苦いもの、色んな味があるということを知ることが、人間的成熟、文化の成熟に繋がる。

 

何か未知のものに対する「こわい」という感覚が広い意味でのスリル的楽しさであり、インタレスティングの面白いとはまた別の楽しい。
ゆとり教育」はそういう「こわい」ものを見せるためのゆとりであって、「ゆるみ」になってはいけないというのが河合さんの持論ですが、日本ではなんでもゆるみ教育になってしまっていると。先生が知っているようなことをちょっとずつ習っていくのが学力ということになっているけど、そんなのはナンセンスで、未知の世界があることを「こわい」という緊張感の中で知っていくのが本当の学びだというのは、子供だけでなく、我々大人にとっても非常に大事なことですね。


現代は、子供が大人へと成長していく中で、子供をつくっている構成要素を一度バラバラにして再構成していく時に、影響されるものが多すぎて「われ」が分からなくなる。
「われ」を再構成する時に、昔は両親や先生といった人達にしがみついていたのが、そういった人達が憧れの対象ではなくなって、テレビタレントなどにすごく影響されてそういった人達にしがみついている。
なまじ「われ」が強い人ほど、そういった流行の人達になどにしがみつけず、外部に適応しにくいことも起こり得るというのが次のお話です。

「われ」がはっきりしない人の方が色んなものに簡単にしがみついて順風満帆に行っているように見えるけど、中年期になってすごい危機を迎える場合もある。
時代精神にあった「われ」を持っている人もいて、例えばバブル前は華やかにしていたのに、バブルが弾けたりして時代精神が変わるとガツンとやられてしまう人もいる。

先のお話と繋げると、「われ」がはっきりしない人の方がペルソナを被るのも上手いけど、ある時に自分が分からなくなってしまったりもする、というようなことでしょうか。ただ、自分の中に一貫性があるからこそ色んな仮面を被れるというのもある。なんだかよく分からなくなってきましたが、ある時上手くいっていた人が急に鬱になってしまったり、若い時周りと適応できなくて苦労した人が中年以降大成したりと、やはり人間は一筋縄ではいかないということを思い知らされます。

一方、芸術というのは、お金もない、人間関係もボロボロ、普通じゃない精神状態のような人からすごいものが生み出されたりする、そういった側面もあると語られています。一章の想像力が発酵するまでは光を当てるべきでない、という話とも重なるところがありますが、色んなものが腐りかけになるギリギリのところでいいものが出てくる。

人間誰しも無意識の部分には不健全な部分があるように、必ずしも健全な状態が正しいとは限らないというわけですね。文化の話となるとなんでも健全なものばかりを認めようとするけれども、本当に健全というのは、不健全というのを認めているはずだと。人間だけが自分、自分と自分というものをすごく気にする存在である、それ自体が不健全とも言えるし、不健全な状態こそ人間の素なのかもしれないですね。

 

5.宇宙のハーモニーを聴くー宮田まゆみさんと

宮田まゆみさんは「笙」という珍しい楽器の奏者です。笙は雅楽で使われる中国伝来の楽器ですね。
宮田さんは元々ピアノをやられていたそうなんですが、そこから笙を始めるきっかけになったエピソードが、まさに心の無意識から音楽が出てきたような、神秘的な話で印象に残ったので引用します。

直接のきっかけというのが、自分でも不思議なんですけど、なんか光が雲間から射してきたような、それこそ放射線状の。五月の十日ごろ、ちょうど新緑がはじまるころで、一週間ぐらい降り続いた雨がやんだ夕方、西の空の雲間から光が射していたんです。それを電車に乗って、ドアのところに立っているときに見ていたら、急にまわりの音が聞こえなくなり、その光の音が聞こえたような気がしたんです。その聞こえたというか、言葉では表現できない感じですけど、なんかドキドキしてきて、自分の内側から揺さぶられて出てきたっていう感じがして、その音が笙の音だったような気がするんです。

多分どこかで笙の音を聞いていたことがあったのが、心の中に溜まっていて、それでふとした時に内側から出てきた。なんとなく雅楽全体が思い浮かんだので、家に帰ってレコードを聞いてみたら、まさにそんな感じの音だった。宮田さんは笙と出会うまではかなり精神的に不安的だった時期もあったそうなんですが、笙と出会ってからはそういったことがなくなったというのもまた不思議です。

 

音というのは形も重さもないけど絶対に存在していて、だから神とか魂に結び付けやすい。音というのはどうしても神秘的なものと結びつく傾向があるとも河合さんはおっしゃっています。
共通感覚のある人は音を聞くと色を感じたりもするそうですが、宮田さんもバッハを聴くと数字が浮かんでくるというので、アーティストタイプの人というのは、自分の無意識と繋がりやすいというか、そういう人を天才と呼ぶんでしょうかね。サヴァン症候群もまたこういった特徴の一つとも言えそうです。

 

色は光の波長で、音も波だから何か相似性みたいなものがあるんでしょうね、と宮田さんがおっしゃるのに対し、そういう中で人間は感覚を無視して言葉を作ってしまう、というのが、この本でも度々出てくる言語性の面でまた印象に残りました。
確かに言葉は文明を作ってきたけど、なんでも言葉にして概念を固定化してしまうと、人生が貧しくなることもある。感覚でなく言葉に頼り過ぎたら頭でっかちになって、せっかく生きてるのに生きてる感じがしなくなってしまう、というのはまさに現代人に当てはまることのように思います。


今は人間が楽しむものとして音楽をやっているが、元々は神様と交信するために音楽はあった。先に見てきたスポーツにしろ芸術にしろ、大元は神様に近づいたり神様を讃えたりするために宗教から始まっており、そうやって技を極めていったりする中で、ゾーンに入ったりトランス状態になったりする。それも宗教でいう悟りといわば同じことのように感じますね。

 

古典的な音楽には宇宙の大きな空間のようなものを感じるという話や、笙の音は宇宙線のような音に聞こえるとういう話も出てきて、音楽というのは本来は東洋的とか西洋的とか分けられるべきではなく、本当の音というものは自分の内側から出てくる、その本当の自分の内側というのも普段の意識からはずっと遠く離れたところにあって、というような、なんだか途方もない宇宙的ところまでいって、人間の無意識は宇宙のようなものかもしれないと思うととても興奮させられました。

全ては呼応していて、内も外も無い、分かったようで分からないような、という感じです。

 

6.大人のつとめー今江祥智さんと

最後のこの章は、児童文学作家の今江祥智さんとの対談です。
まずは土地の霊力的磁場、いわゆる一章でも出てきて地母信仰とも繋がるような話から、児童文学者として宮崎駿さんの千と千尋の神隠しも磁場の一種だという、興味深い話がありました。自分はラピュタとかもののけみたいな分かりやすい方が好きだったんですが、今江さんによると「千と千尋」は宮崎さんのメッセージ性がほどよく抑えてあって、アニメーションでしか表現できない世界観とおっしゃっていてまた改めて見てみたい気分になりました。千と千尋の異界の「こわさ」というのは4章の森村さんのお話とも通ずるところですね。

この章では家族としての在り方から、読書についての話など、実際的な話も多く身に積まされる思いでした。
昔の日本の家は大家族で、祖父祖母や、叔父さんだったり叔母さんだったりが「魂」の導き手の役割を果たしているところもあった、しかし今の核家族では父親と母親だけで子供を育てる、お金も稼ぐ、という物理的に厳しい中で子供の道徳的教育まで行うのが難しい。親が教えられないというよりは、触れ合う大人がほとんど父親と母親で、そういった中で子供が「異界」に触れる機会が少ないのは一つ子供の成長を妨げる要因のようにも思えました。

今江さんの実体験でいうと、父には母公認の「二号さん」がいて、子供ながらにたまにやってきて上等なおもちゃを思ってきてくれたりする綺麗な二号さんは、まさに異界から来た人みたいだったと。今はデジタルで知ろうと思えばなんでも知れる時代でもありますが、そういった親や教師が教えてあげるだけではない世界というものを子供に教えてあげる役割をしてくれる人が身近にいるのは大事だな、と漠然と思いました。

また、最近は子供や大学生が本を読まなくなったことも河合さんここで嘆いておられます。これも4章で少し出た教育の話とも繋がるところですが、最近は先生が知っているたった一つの答えだけが正解で、それ以外は不正解、正しい答えを早く知って、たくさん覚えているやつが勝ちだとみんな思っているが、それは大間違い。
私が子供の頃から、教えられることだけじゃなく、自分で考えることが大事、などとは言われてきましたが、実際に学校という場で本当の学び、ということをする機会は少なかった気がします。
本の重要な部分をさっさっと読んでしまう速読なども近年流行っていますが、河合さんはおもしろい本というのを端から端まで読むことが大事だと言っておられます。

ショーペンハウエルも「読書について」で、良い本を何度も読むこと、悪書を読むな、と語っていましたが、確かに読書は大事だが、良い本を精読すること、やはりこれが読書の真髄なのでしょうかね。
おもしろいことをやろうと思ったら無駄をしないと駄目なのに、なんでも近道ばかり教えて、効率ばかり重視している。無駄が大事、というのもゆとり教育で目指したところかもしれませんが、日本ではそれがただの「ゆるみ」になっている、というのも先に出た話ですね。


ITのおかげで日々触れる情報も圧倒的に増えて、あらゆるスピードが速くなった今こそ、手で触れられるものや、心の底から湧き上がってくるものが大切、ということを本当に実感させてくれました。

 

  • まとめ

内容も多岐に渡り、学術的な部分もあり難しいところもありましたが、人の心について、色んな側面からアプローチした、とても知的好奇心をくすぐってくれる本でした。
ありきたりではありますが、現代ほど科学が発展しても、まだまだ人の心には理解できない宇宙が広がっていることが面白いところです。河合さんの本は、特別な知識などなくても、難しいけどなんか分かる、といういい具合に崩して語ってあるのでとても読みやすいのでおすすめです。

 

 

 

 

【感想・紹介】カラマーゾフの兄弟/良い本はやっぱり世界観を変えてくれる

凄い本を読むと、やはり自分の価値観に変革を起こしてくれます。

この本も間違いなくその部類に入る凄い本です。

言わずと知れた、文学史に残る世界的傑作の一つ、「カラマーゾフの兄弟」です。

 

見るからに長そうだし、あまりにも傑作言われて前評判が高すぎて、文学素人の自分が果たして手を出しちゃっていいものかどうかというハードルの高さもあって、数年前から読もう読もうと思っていたのですが中々手に取れていませんでした。
アマゾンのレビューでも「最初は分からなくてもいいから、とにかく耐えて読みましょう。全てがここにあります」的なことを言ってる人がいたし、ひと月前から読み始め、毎日少しずつ読みながらとうとう読破することが出来ました。

 

そもそも文学作品というのは文章的美しさだとか、思想や哲学の追及とかで娯楽小説と違って面白さに重点を置いていない場合も多いので、万を辞して読み始めたものの果たして本当に言われてるほど面白いのか?すごいのか?という不安もありましたが、確かにその名高さに違わず、期待を遥かに超える素晴らしい作品でした。(この程度の表現しかできなくてすみません)

 

しばし読書をしていて、知らなかったことが分かったり腑に落ちたりするとアハ体験的な快感を受けることがありますが、この本も読書中何度も脳に電気が流れるような、エンタメ的面白さとはまた別の知的興奮とでもいうべきものを体感できました。

やはり時の洗礼を受けてなお読み続けられている作品は間違いないようですね。

脳を成長させるには理解できるかできないかギリギリくらいの難しさの本を読むのが良いと言いますが、この本も確かに今の自分にとっては絶妙な難しさ加減がちょうどいい脳への刺激になりました。

もっとも自分がこの壮大の小説を理解できたというのもおこがましいし、果たして半分も理解出来ているのかも怪しいところですが、分かった範囲で紹介してみようと思います。

 

  • ストーリー(ネタバレあり)

この小説のストーリーを簡単にいうと、一人の美女と遺産を巡って争う、父と子の間で起きた殺人事件の真相を解き明かしていくサスペンスです。

これだけいうとシンプルにただの火曜サスペンスか何かのようですが、ここに宗教や哲学等様々な要素が組み込まれ、幸福とは何か?人間はどうあるべきか?といった普遍的なテーマを深く考えさせられることになります。

まあおおまかなあらすじはamazonとかでも見れば分かりますね。以下引用です。

物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。

 

登場人物をざっくりと紹介します。 

 

三男アリョーシャ(アレクセイ):主人公。善人。美青年。信心深く謙虚で穏やかなため作中人物の誰からも好かれる。

 

次男イワン(ワーニャ):知的。先進的な考えのエリート。長男ドミートリィの婚約者カテリーナのことが好き。

 

長男ドミートリィ(ミーチャ):元軍人。金があれば全部ドンチャン騒ぎに使っちゃうタイプ。次男三男とは腹違い。カテリーナという女性と婚約しているがグルーシェニカという別の女性に入れ込んでしまう。(ドミートリィを実質の主人公とする見解もあるそうです。)

 

父フョードル:金と女ことしか考えてない正真正銘のろくでなし。やり手ではあるので金の為に最初の妻(ドミートリィの母)と結婚するも離婚。二人目の妻はアリョーシャを生んで数年後に死別。

 

スメルジャコフ:知的に障害のある浮浪者の女をフョードルが強姦し生まれたと噂される。神経質でひねくれ者だが頭は切れる。フョードルの料理人。腕はいい。

 

グルーシェニカ(アグラフェーナ):妖艶な女性らしい魅力と奔放さで男を振り回す。父フョードルと長男ドミートリィはグルーシェニカを巡って争う。

 

カテリーナ(カーチャ):長身で美しく、聡明な女性だが、高飛車と評されることも。ドミートリィに家族の窮地を救われたことがきっかけで彼の婚約者となる。(ドミートリィはグルーシェニカに夢中になりカテリーナとの婚約を破棄しようとする。)

 

グリゴーリィ:フョードルの召使。実直で真面目だが頭の固い老人。幼き日の兄弟たちの世話をする。フョードルからは信頼されている。

 

ゾシマ長老:アリョーシャが属する教会の長老。アリョーシャの人格に多大な影響を与えている、実の父のような人物。

 

他にも数多くの人物が登場するのですが、押さえておくべき主要な人物はこのあたりでしょうか。

ちなみにロシアも英語圏のように正式名と愛称があり、作中でも正式名と愛称が入り乱れて使われるし、他にも多くの人物が登場し皆似たような愛称で呼ばれるので最初のうちは混乱します。

ロシアでも近しい者は愛称で呼ぶようですが、ある程度の距離の対人関係になるとやたらフルネームを連呼するので日本人の感覚からするとなんだか非常にシュールです。

 

海外文学を読むにあたっては、まず訳文に適応するところから始まるような気がしますね。単に翻訳者の方の訳し方の特徴だったりするのかもしれませんが、ロシア文学英米文学ともまた違った癖があって最初は違和感を感じました。

 

こちらが刊行されたのも1978年とのことですし、ギリギリ昭和世代な自分にとっては訳も若干時代錯誤に感じるのと、一旦ロシア語からフィルターにかけられて日本語に訳されたものという違和感もあって、二重にとっつき辛く感じてしまいます。

しかし読み進めていくにつれて文体にも慣れてくるし、ロシアならではの台詞回しも段々クセになってきて面白いです。

 

もっとも私にとってこれが初めてのロシア文学なので、この小説がこうなのかロシア文学全般こうなのかは定かでないので申し訳ないのですが、作中の人物達は皆ドラマティックな話し方をします。ロシア人ってもっと淡々としててクールなイメージだったんですが、演劇の台本かなにかを読んでいるような感覚になってきます。

 

ロシア人達はやたらと色んなことに感激してやたらと接吻します。感激しすぎて崩れ落ちたり、ショックを受けるとすぐ寝込んでしまいます。

よく感情的になり過ぎててんかんを起こすという場面が頻繁にありますが、これは医学が伴っていなかった時代的なものなのか、はたまたロシア人の気質的なのものなのか、これだけでももっと他のロシア文学を読んで予習しておけばよかったと思うほど、文化的にも時代的にも現代日本の感覚からしたら分からない部分が多々あるので、こういった面でも海外文学を読むというのは見識が広がって勉強になりますね。

 

  • この小説の何が素晴らしいのか

1.真に迫った人間描写


文学を読む面白さといえば、ファンタジー小説やミステリー小説のように壮大なストーリーにワクワクしたり、謎を解き明かしていく興奮だったりとはまた違い、文章表現の巧みさに心地よさを感じたり、人間心理の機微などに思わず頷いて共感してしまうような面白さです。この小説も、世界的文豪による巧みな文章力より人間の本質がありありと描かれています。

小説に限らず現実の世界でも、私たちは人を判断する時に、例えば「あの人は毎日飲んだくれてばかりで駄目人間だ」とか、「あの人は仕事を完璧にこなして素晴らしい人だ」とか、人の一面的な部分を見てこうだからこうだ、と判断しがちです。
確かに人間にはある程度のステレオタイプがあり、学級委員みたいなタイプだったり、やんちゃなタイプだったり、カテゴリとして区分できるところもあります。

そしてこの小説はステレオタイプな人間を描くのも非常に上手く、そこがまた魅力的でもあります。喋り出したら横道に逸れて止まらないお喋りなおばさんとか、知識をひけらかしたがるちょっとませた生意気な子供とか、やっぱりこんなタイプの人間はどんな時代のどんな国にでもいるんだな、と感心します。

しかし、この小説では人間のタイプのカテゴリをさらに越えて、どうしようもないろくでなしのような人間にの中にも美しく純粋な部分を見いだせたり、聡明で理知的に思われた人間が突発的感情に駆られて思いもよらぬような行動を取ってしまったり、人間の奥深さが真に迫って描かれており、言葉で表現するのが難しい感覚を、まさにドストエフスキーの巧みな文章力と表現力により言葉として表現されたという感じです。


なんとなく印象に残った作中の台詞の一部を抜粋します。


「自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな。」

 この台詞は、ゾシマ長老が、ある立派な医師について語った台詞です。頭がよくて見識のある人でも、他者のために奉仕したいと思っているにも関わらず、個々の人間と関わっていると次第に欠点ばかり目について疎ましく思ってしまうという、なんだか言われてみると分かるような、誰にでもありそうな感覚だと思いませんか?

 

今のコロナが流行している時世で例えれば、早く収束して平和になって欲しいと思い自分は真面目に自粛しているにも関わらず、マスクをしていなかったり不用意に外出するような人を見ると憤りを感じ、そうして一部の人間に怒りを感じるほど、より多くの真面目な大多数の人間に親しみを感じていくような感じでしょうか。


こういった人間心理の妙があらゆる場面で表現され、読む進める度に著者の秀逸な人間観察力に唸らされます。

 

 

 

2.娯楽小説として読んでもシンプルに面白い

この小説が傑作といわれる所以は、主に作中で取り扱われる宗教的な部分や思想的な部分が大きいかと思いますが、ストーリーの方もつい惹きこまれてしまう面白さがあります。ところどころ難しく読み難い場面もありますが、大筋としては、殺人事件とそこに至る経緯、それに伴う人間模様、その後犯人の追及、裁判が描かれるので、刑事ドラマや法廷ドラマのような面白さもあり、先が気になりどんどん読み進められてしまいます。

 

3.神と人間の問題に対する深い追及

 

この小説を語るにあたって避けることが出来ないのが宗教についてであり、この作品のキモともいうべきところでしょう。
現代の私たち日本人にとって宗教と言われてもあまり馴染みがないと感じる人も多いかもしれませんが、現代日本においても宗教は色んな所に根づいています。
日本では新興宗教による大規模な事件があったこと等もあって、宗教=胡散臭いもの、信心深い人=変な人、のように結構漠然と宗教に対してアレルギーを持ってる人も少なくないかとは思うのですが(かくいう私もそうかもしれませんが)、正月には皆熱心に初詣に行ったり、何か大事な事の前には神社で祈願してもらったり、日常の色んな場面で宗教に基づいたことをやっています。


世界中色んな宗教で同様の教義はあるかと思いますが、私たちが当たり前に認識している、人を殺してはいけない、盗みをしてはいけないなどの道徳も、仏教の教えに基づいたことですね。
神様の存在を信じているかに関わらず、とりあえず何か悪い事をすると気持ちが悪い、なんとなく「縁起」のいいことをした方が良いと思う、など漠然と何か超常的な存在を意識しているところは多かれ少なかれあるかと思います。

 

この小説で語られる宗教はキリスト教なので、日本の宗教観とはまた違うのでとっつき辛いところもありますが、人間が抱える心の問題への普遍的なアプローチとしての宗教を考えるという点では、私たち日本人にとっても大いに共通するところでもあります。

この小説が初めて刊行されたのは1880年、日本では当時明治13年のことです。
明治というと、ひいひいお爺ちゃんくらいの時代なので実際どんな時代だったかもはや想像もつかないような気もしますが、この小説に限らず日本の昔の文学にしても、読んでいると意外と現代の問題と全く同じような問題について語っていて驚くことがあります。
時代が変わって表面的な価値観は変わっていっても、結局人間の苦悩であったり根本的な部分はいつも同じですからね。この小説では人間の幸福や苦悩と宗教との関わりを非常に深く突き詰めて追及しています。

この当時のロシアも、現代よりはまだ当たり前に「神は存在する」という信仰が根づいていたようですが、近代化に伴い、無神論的な思想も広がるようになってきたのもこの頃からでしょうか。
正直キリスト教に関する知識はほとんどないのであまり語れませんが、作中では次男イワンを通じてキリスト教への反駁が提示されます。
キリスト教も神を信じ善行を積めば救わる、という教義によって支えられていますが、いつか訪れるという救いのための対価として、罪のない多くの人が虐げられ、悪人がのうのうと暮らしているような世の中なんぞクソ喰らえだというのがイワンの主張です。
良いことをすれば天国に行けて悪いことをすれば地獄に落ちる、というような言葉は日本でも誰もが子供の頃に聞いたことがあるのではないかと思うのですが、そんな教えとは裏腹に、不条理ばかりな現実といかに向き合うのかということも、この小説ではかなり突っ込んで考えさせられます。


神と人間の問題に関してはかの有名な「大審問官」の章をはじめ、こんなところには書ききれないほどもっと内容も広く奥が深いのですが、正直自分もまだ完全に理解出来ていないし、キリスト教の知識も大してないので、また改めて別の機会にまとめてみたいと思います。

一方で、信仰によって確かに救いがあり、人は幸福になれるということもドストエフスキーは提示しています。
三男アリョーシャと、その師ゾシマ神父は神を信じる人間としての立場として描かれていますが、彼らにまつわるエピソードは、信仰を持つことそれ自体が、心を平穏に保ち、死の間際でもあっても心安らかでいられる卓越した人間の姿を描いています。

今や大々的に自分は神を信じてるなどと言おうものなら変人扱いされること必至な世の中ですが、科学と技術と進歩によってより物質的なものが尊ばれる社会というのもどうなのかな、と改めて考えさせられます。

 

ドストエフスキーも、信仰を失い堕落した社会の様子を作中でゾシマ長老を通じて語っています。

人々はもっぱらお互い同士の羨望と、色欲と、尊大さのためだけに生きている。パーティや、社交界への出入りや、馬車や、官位や、奴隷の下僕などを持つことが、もはや絶対の必要事と見なされ、その必要を充たすためなら、生命や名誉や人間愛さえ犠牲にし、万一それを充たすことができなければ、自殺さえやってのけるのだ。裕福でない人々の間にも、まったく同じことが見られるし、貧しい人々にあっては、欲求不満と羨望とがさしあたりに飲酒でまぎらされている。だが、ほどなく、酒の代わりに彼らは血に酔いしれることだろう、彼らの導かれてゆく先はそこなのだ。わたしはみなさんいうかがいたい――こんな人間がはたして自由なのだろうか?

 

中略

俗世では人類への奉仕とか、兄弟愛とか、人類の統一とかいう思想がますます消え薄れ、実際にこの思想がもはや嘲笑とともに迎えられてさえいるのだ。なにしろ、この奴隷が、みずから考えだした数知れぬ欲求を充たすことにこれほど慣れてしまった以上、どうやってその習慣から脱し、どこへ行こうというのであろうか?孤独になった人間にとって、全体のことなぞ、何の関係があるだろう。こうして得た結果と言えば、物を貯えれば貯えるほど、喜びはますます少なくなってゆくということなのだ。

 

この本を読むと、当時のロシアも今の日本も、文明のレベルは違えど内面はさほど変わっていないというか、まるで現代社会の人々の様子をほとんどそのまま予言したみたいだなと感心しました。

社交界が手っ取り早いSNS上での見栄の張りあいになったり、馬車が外車とか良い車に変わったくらいで、やっぱり表向きを飾ることや物質的なものを重視してしまうことはいつの時代も変わらないのかもしれません。そして社会に不満を持った人が犯罪を起こしてしまうことも無くなりません。

 

私も今更社会主義になるべきだとか、もっと信仰を取り戻すべきだとは思わないし、恐らくよっぽどの社会的変動がなければそんなことは不可能だと思うのですが、やはり人はどこかで無意識に宗教的な部分を持っていた方が落ち着くのかもしれませんね。

 

最近はIT企業を中心に作業効率化の一環として瞑想を取り入れる企業が増えたりとか、余計な物を持たない断捨離やミニマリズムが流行ったりとかしているみたいですが、これらもライフハックというお洒落なパッケージをまとってはいるものの、本質的には宗教的行為の一つではないでしょうか。神に祈るという行為にしても、マインドフルネス瞑想にしても、目的こそ違えど心を落ち着け悩みを解消してくれるという点ではある意味同種の行為ですし、余分なものを持たず清貧な生活を尊ぶことも、あらゆる宗教で教えられていることです。

今の時代がっつり宗教にハマったりとか、出家して僧になるような道は現実的ではないかもしれませんが、自分の人としての在り方を考えさせられる壮大な小説でした。

 

ちなみに、この小説は実は未完成だそうです。
第一部と第二部の構想であり、第一部が現在も世に出ているカラマーゾフの兄弟なのですが、ドストエフスキーは第二部を執筆する前に亡くなってしまいました。
自分はそのことを知らず、小説の冒頭で主人公アリョーシャは悲惨な死を遂げると書いてあったので、てっきり最後アリョーシャは死んでしまって終わるものと思って今いたが、死にません。訳者後書きでも言われている通り、第一部である本作だけでも一つの作品として完璧に成立していると言えますが、あったかもしれない第二部の存在を意識しながら読むとまた新たな見方も生まれるかもしれません。良い作品というものは読み返すたび新たな発見があるというので、人生を通して何度も読み返したいと思います。

 

読書する意味とか効果とか

初めまして。

 

コロナウィルスで休みが増えたりして時間も出来たので、せっかくなので今まで読んだ本とか、これから読む本なども記録やアウトプットも兼ねて紹介出来ればいいなと思って今更ながらブログを始めてみました。

 

読書を勧める読書法の本や記事や動画なんかでも、読書のメリットについては今や至るところで語り尽されているかとは思いますが、僕も自分の考えを自分なりに整理するという意味も合わせて書いてみたいと思います。

そもそも僕がまともに本を読むようになったのも大学を卒業してからのことで、それまでは漫画くらいしかろくに読んでなかったので、今思えばもっと早いうちから色々読んでおけば、今は全然違った人生になっていたかもなぁとすごく後悔したりもします。

 

僕が本を読むようになったのも、千田琢也さんの「人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。」という本に書いてあった、「本を読まない貧乏人はたくさんいるが、本を読みすぎで貧乏になった人はいない」、ようなことを真に受けて、「じゃあとりあえずたくさん本読めば金持ちになれるんやな!」とか適当な理由からでした。 

今読み返してみると、読書をする人は顔が左右対称になるとか、借りた本では身に付かないから本は買うべき、とか眉唾なことも書いてありますが、結構ハッとさせられることや読書欲が湧いてくるようなこともたくさん書いてあります。

本は全部読む必要はない、積読でも立派な読書、などといった考え方は当時の自分にとっては目から鱗でした。

読書をすること自体をワクワクさせてくれるような、読書をする良いきっかけとなった本でした。

 

今だったらこういったビジネス書は手に取らないかもしれませんが、それからまずは自己啓発本やビジネス書を色々読むようになり、今まで本を読んで来なかったこともあって、読み始めた頃は新しく読む本全てが新鮮で、読む度に知恵がついて成長しているような気がして楽しかったです。

 

 一時期は読む量を増やすことが目的になってしまって、読んで満足してしまう自己啓発病にもなってしまいました。

もちろん今でこそ、本を読んでも影響を受けたことを実行に移さなければ実を結ばないし、読むこと自体が目的になったりしてしまっては本末転倒だということも分かるようになったんですが(小説とかは読むだけでも世界観が広がったり、読解力や思考力を鍛えられる面もあると思いますが)、定期的に読むことでやる気のスイッチをオンにしたり、今自分がどれだけ実践出来ているか省みることができる点もあって今でも時々気になったものは読んでます。

 

 今は本をたくさん読んだからといって別にお金持ちにはなっていないのですが(むしろ収入自体は減ったんじゃないかというくらいですが)、

収入よりも残業とかなくてやりたい系統の仕事をやれればいいかな、という考えのもとに行動していった結果、今は割と自分の望んでいた生活が出来ている気がします。

 

なぜ読書なのかという問いに戻ると、やはり本を読む一番の意味、メリットとしては自分の人生を変えるきっかけとなるものの中でも、最も身近でお手軽なのが読書といってもいいでしょう。

人生を変える主な出会いとして、人との出会い、映画との出会い、本との出会い3つの出会いがあるのですが(これも何かの本で読んだのですが、すみません忘れました。)、

人との出会い関しては、受けるインパクトとしては一番大きいものだと思いますが、人生を変えられるほどインパクトのある人との出会いは探そうと思ってもそうそうあるものではない、時に悪いインパクトを受けてしまう出会いもある、人間関係を変えるというのは少々ハードルが高い、などといった難しさもあります。

 

映画に関しては、映像での訴求力の強さ、長くても2,3時間で見終ることができ、深い感動や人生に対して教訓を得ることが出来る、という時間対効果の高さについていえば、読書に勝るかもしれません。

 

ただやはり、自分の興味のある事、仕事で必要な知識、価値観を変えてくれる人生訓、違う世界に連れていってくれる物語、等々自分の目的に応じて学べる本こそが最も理にかなったツールなのではないかと思います。

また、例えばコミュニケーションについての本を読むことで身に付けた知識を、人との出会いにおいても実践していくことができる、小説を読むことで身に付けた感性や読解力で、映画を観る時もより深く味わうことが出来る、など、人や映画との出会いにおいても相乗効果をもたらすことが出来ます。

 

本を読む際にも、哲学書や心理学の本を読んだ知識のおかげで難しい小説を理解出来るようになったり、と知識が有機的に結びついてどんどん読書をすることが楽しくなっていきます。

 

何か本を読んでいる時に、その本の中で気になったことについてまた別の本を読んでみて、というように読めば読むほど、どんどん自分の頭の中の世界が広がっていきます。

本を読むようになった今、もはや読書はただの知識を得るためのツールではなく、人間関係と同じように人生において不可欠な要素の一部といっていいかもしれません。

 

  • 本とは人類が積み重ねてきた知恵そのものである

ITが発達し簡単に必要な情報が得られるようになった今こそ、一冊の本にじっくりと向き合って考えることが大切だとかは色んな所で言われているかと思いますが、確かにその通りだと思います。自分自身との対話によって思考を深められるという点では、やはり読書によって文字を追うことが一番手っ取り早くお手軽ではないでしょうか。

 

みんながネットで何でも調べて、本を読む人が少なくなった今、本を読んで考えることが出来る人は読まない人達を超えていける可能性がぐっと高まります。

ネットでもお手軽に必要な情報を得ることは出来ますが、やはりそれだけでは情報どまりで、自分の血肉となるまで知識を昇華することが出来ません。

 

もちろん本なんて全く読まなくても結果を出してる人もいれば、本を読んでるけど知識ばかり増えて何の結果も出せていない人もいます。

実社会で結果を出すには実践の場での行動し経験を積まなければ本だけ読んでいても頭でっかちになるだけです。

けれど同じ仕事をしていて本を読む人と読まない人では、大きな差がつくでしょう。

家庭や職場など、限られた人間関係、生活環境の中だけで生活していればその中での考え方、価値観しか育ちません。

人類はこれまでの歴史の中で積み重ねてきた叡智を書物として残してきました。

本とは、人類がこれまで何千年にもわたって蓄積してきた叡智といっても差し支えありません。

本を読むことで、それらの叡智を自分の血肉として活かすことができます。

 

僕も軽度のASDADHD持ちのコミュ障な上に処理能力が低すぎるポンコツでしたが、本から学んだ会話術や仕事術でなんとかカバーしてやってこれました。

行動範囲も家からコンビニかスーパーくらいまでしかない超出不精でしたが、本から得た行動力やモチベーションで夢だった世界放浪の旅をしたり、中高時代は女子と2往復以上会話が続いたことがないくらいのレベルでしたが、今の奥さんとも出会って結婚も出来ました。

胡散臭いセールスみたいですが、確かに本を読んでいる人生と読んでいない人生では、全く違う人生になっていただろうなと思います。

本を読もうと思えば図書館でもタダで借りれるし、1円で買える古本もあるし、タダ同然で自己投資が出来るんであればまずはそこから始めてみるのもいいんでないでしょうか?

本を読むことにハマり始めたら、読みたい本があり過ぎて暇とか言ってる暇が無くなります。

空いた時間にテレビを見たりスマホでゲームをするのもいいですが、ただ何気なく過ごしてしまっているのなら非常に勿体ないことだと思います。

僕も昔はテレビやゲームも好きだったし、それで今まで時間を無駄にしてしまったと思ってなんとなくテレビやゲームを忌み嫌っていたのですが、嫁がテレビっ子なので仕方なく一緒に見ていたりすると、案外最近のテレビからはいくらでも楽しく学べることはあります。

ただやはりテレビやゲームは、どうしてもつい見入ってしまったり止められなくなる仕掛けになっているので、自分主体でなくなってしまいます。

なので我が家では気になる番組はもっぱら録画しといてCMカットしつつ早送りしたりとかして見てます。

別に何も娯楽を排して効率や成長にばかり気を取られることが人生ではないですが、やっぱり本という広い世界を知らないことは損だなあと思います。

 

というわけで、これからは色々良いと思った本の感想とか書いていきたいと思います。

お勧めの本などもありましたら教えてください。よろしくお願いします。