テレビを捨てて本を読もう

ただの本の感想、紹介、アウトプット用のブログです

【感想・紹介】カラマーゾフの兄弟/良い本はやっぱり世界観を変えてくれる

凄い本を読むと、やはり自分の価値観に変革を起こしてくれます。

この本も間違いなくその部類に入る凄い本です。

言わずと知れた、文学史に残る世界的傑作の一つ、「カラマーゾフの兄弟」です。

 

見るからに長そうだし、あまりにも傑作言われて前評判が高すぎて、文学素人の自分が果たして手を出しちゃっていいものかどうかというハードルの高さもあって、数年前から読もう読もうと思っていたのですが中々手に取れていませんでした。
アマゾンのレビューでも「最初は分からなくてもいいから、とにかく耐えて読みましょう。全てがここにあります」的なことを言ってる人がいたし、ひと月前から読み始め、毎日少しずつ読みながらとうとう読破することが出来ました。

 

そもそも文学作品というのは文章的美しさだとか、思想や哲学の追及とかで娯楽小説と違って面白さに重点を置いていない場合も多いので、万を辞して読み始めたものの果たして本当に言われてるほど面白いのか?すごいのか?という不安もありましたが、確かにその名高さに違わず、期待を遥かに超える素晴らしい作品でした。(この程度の表現しかできなくてすみません)

 

しばし読書をしていて、知らなかったことが分かったり腑に落ちたりするとアハ体験的な快感を受けることがありますが、この本も読書中何度も脳に電気が流れるような、エンタメ的面白さとはまた別の知的興奮とでもいうべきものを体感できました。

やはり時の洗礼を受けてなお読み続けられている作品は間違いないようですね。

脳を成長させるには理解できるかできないかギリギリくらいの難しさの本を読むのが良いと言いますが、この本も確かに今の自分にとっては絶妙な難しさ加減がちょうどいい脳への刺激になりました。

もっとも自分がこの壮大の小説を理解できたというのもおこがましいし、果たして半分も理解出来ているのかも怪しいところですが、分かった範囲で紹介してみようと思います。

 

  • ストーリー(ネタバレあり)

この小説のストーリーを簡単にいうと、一人の美女と遺産を巡って争う、父と子の間で起きた殺人事件の真相を解き明かしていくサスペンスです。

これだけいうとシンプルにただの火曜サスペンスか何かのようですが、ここに宗教や哲学等様々な要素が組み込まれ、幸福とは何か?人間はどうあるべきか?といった普遍的なテーマを深く考えさせられることになります。

まあおおまかなあらすじはamazonとかでも見れば分かりますね。以下引用です。

物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。

 

登場人物をざっくりと紹介します。 

 

三男アリョーシャ(アレクセイ):主人公。善人。美青年。信心深く謙虚で穏やかなため作中人物の誰からも好かれる。

 

次男イワン(ワーニャ):知的。先進的な考えのエリート。長男ドミートリィの婚約者カテリーナのことが好き。

 

長男ドミートリィ(ミーチャ):元軍人。金があれば全部ドンチャン騒ぎに使っちゃうタイプ。次男三男とは腹違い。カテリーナという女性と婚約しているがグルーシェニカという別の女性に入れ込んでしまう。(ドミートリィを実質の主人公とする見解もあるそうです。)

 

父フョードル:金と女ことしか考えてない正真正銘のろくでなし。やり手ではあるので金の為に最初の妻(ドミートリィの母)と結婚するも離婚。二人目の妻はアリョーシャを生んで数年後に死別。

 

スメルジャコフ:知的に障害のある浮浪者の女をフョードルが強姦し生まれたと噂される。神経質でひねくれ者だが頭は切れる。フョードルの料理人。腕はいい。

 

グルーシェニカ(アグラフェーナ):妖艶な女性らしい魅力と奔放さで男を振り回す。父フョードルと長男ドミートリィはグルーシェニカを巡って争う。

 

カテリーナ(カーチャ):長身で美しく、聡明な女性だが、高飛車と評されることも。ドミートリィに家族の窮地を救われたことがきっかけで彼の婚約者となる。(ドミートリィはグルーシェニカに夢中になりカテリーナとの婚約を破棄しようとする。)

 

グリゴーリィ:フョードルの召使。実直で真面目だが頭の固い老人。幼き日の兄弟たちの世話をする。フョードルからは信頼されている。

 

ゾシマ長老:アリョーシャが属する教会の長老。アリョーシャの人格に多大な影響を与えている、実の父のような人物。

 

他にも数多くの人物が登場するのですが、押さえておくべき主要な人物はこのあたりでしょうか。

ちなみにロシアも英語圏のように正式名と愛称があり、作中でも正式名と愛称が入り乱れて使われるし、他にも多くの人物が登場し皆似たような愛称で呼ばれるので最初のうちは混乱します。

ロシアでも近しい者は愛称で呼ぶようですが、ある程度の距離の対人関係になるとやたらフルネームを連呼するので日本人の感覚からするとなんだか非常にシュールです。

 

海外文学を読むにあたっては、まず訳文に適応するところから始まるような気がしますね。単に翻訳者の方の訳し方の特徴だったりするのかもしれませんが、ロシア文学英米文学ともまた違った癖があって最初は違和感を感じました。

 

こちらが刊行されたのも1978年とのことですし、ギリギリ昭和世代な自分にとっては訳も若干時代錯誤に感じるのと、一旦ロシア語からフィルターにかけられて日本語に訳されたものという違和感もあって、二重にとっつき辛く感じてしまいます。

しかし読み進めていくにつれて文体にも慣れてくるし、ロシアならではの台詞回しも段々クセになってきて面白いです。

 

もっとも私にとってこれが初めてのロシア文学なので、この小説がこうなのかロシア文学全般こうなのかは定かでないので申し訳ないのですが、作中の人物達は皆ドラマティックな話し方をします。ロシア人ってもっと淡々としててクールなイメージだったんですが、演劇の台本かなにかを読んでいるような感覚になってきます。

 

ロシア人達はやたらと色んなことに感激してやたらと接吻します。感激しすぎて崩れ落ちたり、ショックを受けるとすぐ寝込んでしまいます。

よく感情的になり過ぎててんかんを起こすという場面が頻繁にありますが、これは医学が伴っていなかった時代的なものなのか、はたまたロシア人の気質的なのものなのか、これだけでももっと他のロシア文学を読んで予習しておけばよかったと思うほど、文化的にも時代的にも現代日本の感覚からしたら分からない部分が多々あるので、こういった面でも海外文学を読むというのは見識が広がって勉強になりますね。

 

  • この小説の何が素晴らしいのか

1.真に迫った人間描写


文学を読む面白さといえば、ファンタジー小説やミステリー小説のように壮大なストーリーにワクワクしたり、謎を解き明かしていく興奮だったりとはまた違い、文章表現の巧みさに心地よさを感じたり、人間心理の機微などに思わず頷いて共感してしまうような面白さです。この小説も、世界的文豪による巧みな文章力より人間の本質がありありと描かれています。

小説に限らず現実の世界でも、私たちは人を判断する時に、例えば「あの人は毎日飲んだくれてばかりで駄目人間だ」とか、「あの人は仕事を完璧にこなして素晴らしい人だ」とか、人の一面的な部分を見てこうだからこうだ、と判断しがちです。
確かに人間にはある程度のステレオタイプがあり、学級委員みたいなタイプだったり、やんちゃなタイプだったり、カテゴリとして区分できるところもあります。

そしてこの小説はステレオタイプな人間を描くのも非常に上手く、そこがまた魅力的でもあります。喋り出したら横道に逸れて止まらないお喋りなおばさんとか、知識をひけらかしたがるちょっとませた生意気な子供とか、やっぱりこんなタイプの人間はどんな時代のどんな国にでもいるんだな、と感心します。

しかし、この小説では人間のタイプのカテゴリをさらに越えて、どうしようもないろくでなしのような人間にの中にも美しく純粋な部分を見いだせたり、聡明で理知的に思われた人間が突発的感情に駆られて思いもよらぬような行動を取ってしまったり、人間の奥深さが真に迫って描かれており、言葉で表現するのが難しい感覚を、まさにドストエフスキーの巧みな文章力と表現力により言葉として表現されたという感じです。


なんとなく印象に残った作中の台詞の一部を抜粋します。


「自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな。」

 この台詞は、ゾシマ長老が、ある立派な医師について語った台詞です。頭がよくて見識のある人でも、他者のために奉仕したいと思っているにも関わらず、個々の人間と関わっていると次第に欠点ばかり目について疎ましく思ってしまうという、なんだか言われてみると分かるような、誰にでもありそうな感覚だと思いませんか?

 

今のコロナが流行している時世で例えれば、早く収束して平和になって欲しいと思い自分は真面目に自粛しているにも関わらず、マスクをしていなかったり不用意に外出するような人を見ると憤りを感じ、そうして一部の人間に怒りを感じるほど、より多くの真面目な大多数の人間に親しみを感じていくような感じでしょうか。


こういった人間心理の妙があらゆる場面で表現され、読む進める度に著者の秀逸な人間観察力に唸らされます。

 

 

 

2.娯楽小説として読んでもシンプルに面白い

この小説が傑作といわれる所以は、主に作中で取り扱われる宗教的な部分や思想的な部分が大きいかと思いますが、ストーリーの方もつい惹きこまれてしまう面白さがあります。ところどころ難しく読み難い場面もありますが、大筋としては、殺人事件とそこに至る経緯、それに伴う人間模様、その後犯人の追及、裁判が描かれるので、刑事ドラマや法廷ドラマのような面白さもあり、先が気になりどんどん読み進められてしまいます。

 

3.神と人間の問題に対する深い追及

 

この小説を語るにあたって避けることが出来ないのが宗教についてであり、この作品のキモともいうべきところでしょう。
現代の私たち日本人にとって宗教と言われてもあまり馴染みがないと感じる人も多いかもしれませんが、現代日本においても宗教は色んな所に根づいています。
日本では新興宗教による大規模な事件があったこと等もあって、宗教=胡散臭いもの、信心深い人=変な人、のように結構漠然と宗教に対してアレルギーを持ってる人も少なくないかとは思うのですが(かくいう私もそうかもしれませんが)、正月には皆熱心に初詣に行ったり、何か大事な事の前には神社で祈願してもらったり、日常の色んな場面で宗教に基づいたことをやっています。


世界中色んな宗教で同様の教義はあるかと思いますが、私たちが当たり前に認識している、人を殺してはいけない、盗みをしてはいけないなどの道徳も、仏教の教えに基づいたことですね。
神様の存在を信じているかに関わらず、とりあえず何か悪い事をすると気持ちが悪い、なんとなく「縁起」のいいことをした方が良いと思う、など漠然と何か超常的な存在を意識しているところは多かれ少なかれあるかと思います。

 

この小説で語られる宗教はキリスト教なので、日本の宗教観とはまた違うのでとっつき辛いところもありますが、人間が抱える心の問題への普遍的なアプローチとしての宗教を考えるという点では、私たち日本人にとっても大いに共通するところでもあります。

この小説が初めて刊行されたのは1880年、日本では当時明治13年のことです。
明治というと、ひいひいお爺ちゃんくらいの時代なので実際どんな時代だったかもはや想像もつかないような気もしますが、この小説に限らず日本の昔の文学にしても、読んでいると意外と現代の問題と全く同じような問題について語っていて驚くことがあります。
時代が変わって表面的な価値観は変わっていっても、結局人間の苦悩であったり根本的な部分はいつも同じですからね。この小説では人間の幸福や苦悩と宗教との関わりを非常に深く突き詰めて追及しています。

この当時のロシアも、現代よりはまだ当たり前に「神は存在する」という信仰が根づいていたようですが、近代化に伴い、無神論的な思想も広がるようになってきたのもこの頃からでしょうか。
正直キリスト教に関する知識はほとんどないのであまり語れませんが、作中では次男イワンを通じてキリスト教への反駁が提示されます。
キリスト教も神を信じ善行を積めば救わる、という教義によって支えられていますが、いつか訪れるという救いのための対価として、罪のない多くの人が虐げられ、悪人がのうのうと暮らしているような世の中なんぞクソ喰らえだというのがイワンの主張です。
良いことをすれば天国に行けて悪いことをすれば地獄に落ちる、というような言葉は日本でも誰もが子供の頃に聞いたことがあるのではないかと思うのですが、そんな教えとは裏腹に、不条理ばかりな現実といかに向き合うのかということも、この小説ではかなり突っ込んで考えさせられます。


神と人間の問題に関してはかの有名な「大審問官」の章をはじめ、こんなところには書ききれないほどもっと内容も広く奥が深いのですが、正直自分もまだ完全に理解出来ていないし、キリスト教の知識も大してないので、また改めて別の機会にまとめてみたいと思います。

一方で、信仰によって確かに救いがあり、人は幸福になれるということもドストエフスキーは提示しています。
三男アリョーシャと、その師ゾシマ神父は神を信じる人間としての立場として描かれていますが、彼らにまつわるエピソードは、信仰を持つことそれ自体が、心を平穏に保ち、死の間際でもあっても心安らかでいられる卓越した人間の姿を描いています。

今や大々的に自分は神を信じてるなどと言おうものなら変人扱いされること必至な世の中ですが、科学と技術と進歩によってより物質的なものが尊ばれる社会というのもどうなのかな、と改めて考えさせられます。

 

ドストエフスキーも、信仰を失い堕落した社会の様子を作中でゾシマ長老を通じて語っています。

人々はもっぱらお互い同士の羨望と、色欲と、尊大さのためだけに生きている。パーティや、社交界への出入りや、馬車や、官位や、奴隷の下僕などを持つことが、もはや絶対の必要事と見なされ、その必要を充たすためなら、生命や名誉や人間愛さえ犠牲にし、万一それを充たすことができなければ、自殺さえやってのけるのだ。裕福でない人々の間にも、まったく同じことが見られるし、貧しい人々にあっては、欲求不満と羨望とがさしあたりに飲酒でまぎらされている。だが、ほどなく、酒の代わりに彼らは血に酔いしれることだろう、彼らの導かれてゆく先はそこなのだ。わたしはみなさんいうかがいたい――こんな人間がはたして自由なのだろうか?

 

中略

俗世では人類への奉仕とか、兄弟愛とか、人類の統一とかいう思想がますます消え薄れ、実際にこの思想がもはや嘲笑とともに迎えられてさえいるのだ。なにしろ、この奴隷が、みずから考えだした数知れぬ欲求を充たすことにこれほど慣れてしまった以上、どうやってその習慣から脱し、どこへ行こうというのであろうか?孤独になった人間にとって、全体のことなぞ、何の関係があるだろう。こうして得た結果と言えば、物を貯えれば貯えるほど、喜びはますます少なくなってゆくということなのだ。

 

この本を読むと、当時のロシアも今の日本も、文明のレベルは違えど内面はさほど変わっていないというか、まるで現代社会の人々の様子をほとんどそのまま予言したみたいだなと感心しました。

社交界が手っ取り早いSNS上での見栄の張りあいになったり、馬車が外車とか良い車に変わったくらいで、やっぱり表向きを飾ることや物質的なものを重視してしまうことはいつの時代も変わらないのかもしれません。そして社会に不満を持った人が犯罪を起こしてしまうことも無くなりません。

 

私も今更社会主義になるべきだとか、もっと信仰を取り戻すべきだとは思わないし、恐らくよっぽどの社会的変動がなければそんなことは不可能だと思うのですが、やはり人はどこかで無意識に宗教的な部分を持っていた方が落ち着くのかもしれませんね。

 

最近はIT企業を中心に作業効率化の一環として瞑想を取り入れる企業が増えたりとか、余計な物を持たない断捨離やミニマリズムが流行ったりとかしているみたいですが、これらもライフハックというお洒落なパッケージをまとってはいるものの、本質的には宗教的行為の一つではないでしょうか。神に祈るという行為にしても、マインドフルネス瞑想にしても、目的こそ違えど心を落ち着け悩みを解消してくれるという点ではある意味同種の行為ですし、余分なものを持たず清貧な生活を尊ぶことも、あらゆる宗教で教えられていることです。

今の時代がっつり宗教にハマったりとか、出家して僧になるような道は現実的ではないかもしれませんが、自分の人としての在り方を考えさせられる壮大な小説でした。

 

ちなみに、この小説は実は未完成だそうです。
第一部と第二部の構想であり、第一部が現在も世に出ているカラマーゾフの兄弟なのですが、ドストエフスキーは第二部を執筆する前に亡くなってしまいました。
自分はそのことを知らず、小説の冒頭で主人公アリョーシャは悲惨な死を遂げると書いてあったので、てっきり最後アリョーシャは死んでしまって終わるものと思って今いたが、死にません。訳者後書きでも言われている通り、第一部である本作だけでも一つの作品として完璧に成立していると言えますが、あったかもしれない第二部の存在を意識しながら読むとまた新たな見方も生まれるかもしれません。良い作品というものは読み返すたび新たな発見があるというので、人生を通して何度も読み返したいと思います。