テレビを捨てて本を読もう

ただの本の感想、紹介、アウトプット用のブログです

【感想・紹介】人のこころがつくりだすもの/人のこころはこんなにおもしろい

皆さん河合隼雄さんをご存知でしょうか。
私も最近までよく知らなかったんですが、日本人として初めてユング心理学の心理分析の資格を取得した、日本では分析心理学の草分け的存在であり、文化庁長官にも就任された凄い方です。
肩書きを見るとなんだか偉い学者の方ように感じますが、カウンセラーとして現場で活躍されてきたこともあり、とても気さくで不思議な魅力を持った方だそうです。

残念ながら2007年に亡くなられていますが、著名な方々の間でファンも多く、私は村上春樹さんが何かの自伝で河合さんについて触れられていたのを見て興味を持ちました。
とりあえず現代日本を代表する作家の一人である村上春樹さんの主要な作品を発表順に読んでみようというのを今やっているんですが、村上さんの作品はかなりユング心理学の世界観を反映してるところがあるというので、ユング心理学について知識を深めようと思って図書館で何気なく借りてきたのがこの本でした。
中身をろくに見ずに借りてきてしまったので、てっきりユング心理学についての本かと思ったら、色んな分野の著名人の方々との対談の本だったので返そうかなとも思ったんですが、読んでみるとこれがまた非常に面白い本でした。

 

人の心がつくりだすもの

人の心がつくりだすもの

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 2008/06/18
  • メディア: ハードカバー
 

 
スイス出身の心理学者ユングの提唱したことを元にした心理学で、ユングは同時代に心理学者フロイトと共に、人間の無意識に目を向け、現代の心理学の礎を築いたといってもいい偉大な心理学者ですね。

河合さんの本は、以前読んだ、村上春樹さんとの対談をまとめた「村上春樹河合隼雄に会いにいく」という本も、多岐な事柄について語り合っていって、目から鱗が落ちるようなお話も多く非常に面白かったのですが、

こちらの本も、建築や文学、美術、音楽など、色んな分野の権威の方々との対談で、それぞれの分野が心理学的な切り口から語られていたりして、新しい気づきや発見があって、脳の未開発分野をまた新たに切り開いてくれた感じです。

この本は六章立てになっており、各章で著名人の方々の対談が行われていますが、章ごとに独立しており、それぞれの章に繋がりはありません。
章ごとに分野が変わっていくので、都度新たな分野に関しての見識が広まっていくので楽しいです。しかし章ごとに繋がりはないとはいっても、一つの本として共通するエッセンスもあり、何か漠然とした言葉にならないんだけど、それでいて大切なものに触れられたような、充実した読書体験だったと思います。(語彙力なくてすみません、しかし言葉にできないけど感じられるもの、というのが河合さんがいくつかの書籍で語られていることでもあります。)

それでは各章ごとに見ていきたいと思います。

1.箱庭の中に人類史があるー藤森昭信さんと

藤森昭信さんは建築家であり東京大学教授(現在は名誉教授)という、こちらもまた凄い方です。
心理学のプロフェッショナルと建築のプロフェッショナルの対談というなんとも異色の対談なようですが、河合さんが初めて日本に持ち込んだという箱庭療法からどんどん話が進んでいきます。
箱庭療法は箱庭の中におもちゃを自由において表現することで患者が癒されていく、という心理療法なのですが、建築家の目線から見た表現と、心理学者から見た表現に通ずるところが多々あり興味深かったです。日本には昔から庭園造りなどもあったし、元々箱庭療法が流行る土壌もあったという。

藤森さんが言っておられる中で印象に残ったのは、設計士としてものを作っていくなかでも、自分が作品として表現したいものを下手に言語化するのはするのはよくないということです。建築家の歴史を見ても、自分の想像力が発酵しきらない段階で言葉にしてしまった人は駄目になってしまっている。
人間はなんでも言葉として定義しようとするところがありますが、言葉というのは絶対的なものではなく、あくまで概念に対して勝手にラベルをつけてそう呼んでいるだけで、国によっても違えばまた時代によってもニュアンスが変わってくるので、なんでも言語化してしまうのは時に害になることもあるってことですね。
芸術でもなんでも、表現したいものは想像力が発酵するまで光を当てない、というのは同じかもしれません。
人の心の無意識を大事にしているユング派でもイメージを大事にするそうですし、こうやって読んだ本の感想を言語化して意識化してしまうことも、果たして本当にいいことなんだろうか、ってちょっと考えてしまいますね。

 

人類最初の表現行為も洞穴の中に絵を描いたりすることであって、言語は色々発達して形を変えていっても、人間のイメージというものは普遍だと思うと、もっとイメージの世界を大事にしようという気にもなってきました。

また、都市の風景や歴史的建造物などの財産は人のアイデンティティを保つ上で大事なんじゃないかということも述べられています。人間が自己をどうやって自己を認識しているかというと、目に見えるものが昨日と同じかどうかということで確認している可能性があるとのこと。朝起きて部屋の物の配置が変わっていたりすると違和感を感じてしまうこともあるように、急に隣に家が消えてなくなったりしていたら非常に不安を感じるであろうということですね。


吉武泰水先生という建築学者の方が出した本によると、吉武氏の夢の中では人間関係や時系列は錯綜しているが、自分が育った家や町の風景はいつも安定していると。
日本は地母信仰が未だに残っている唯一の先進国であり、英語やドイツ語には、「懐かしい」相当する言葉がないそうです。(ノスタルジーもまた日本人のいう懐かしいとは別物だそうです。)

風土によってもまた言語が変わってくるのも当たり前かもしれませんが、戦後日本の田園風景を崩して近代的な町並みに作り変えてしまったのも、日本人はかつての心を失った、なんて言われるのも一理あるのかもしれませんね。

 

2.ユングの高笑いー南伸坊さんと

2章は編集者、イラストレーター、漫画家などの肩書を持つ南伸坊さんという方ですね。特に知らなかったのですが、あの任天堂のゲーム「MOTHER」のキャラクターデザインも務められた方とのことです。

 

この章では主に「笑い」について対談しています。最近は笑いの良い効果についてもだいぶん当たり前に知られるようになってきましたが、笑いについての定義とか、ユーモアについても色々語られていて面白いです。
笑いの定義の一つとして南さんが気に入っているものとして「ハイエナ理論」というのが興味深いです。
これも初めて知ったんですが、ライオンの残した残飯を漁っているところに、ライオンがふいに戻ってきたりすると、ハイエナがへどもどして「えへへへ」という笑い声のような鳴き声を出す、これが由来だそうです。

笑いごとじゃないのに笑ってごまかそうとするというか、何か身の危険がある時や普通じゃない状態の時に、バランスを取るために笑ってしまう。
笑ってる場合じゃないときに主体として存在していたら、存在を脅かされてしまうから自己客観化として笑いが出てくる、難しいけど、うーんなるほど、って感じもします。

チンパンジーくらいならもしかしてら笑っているのかもしれないけど、動物は基本笑わなくて人間は笑うというのは、人間は自分を客観視しているからという説ですね。失敗した時とか馬鹿な事をした時に、笑えてきたり、笑ってごまかそうとする、またはワッと笑った時にふと何か理解出来ることがある、笑いというのはつまり自己客観化ということですね。

 

今でこそ笑いの効果も世に知られており、ここでも漫才を聞いて笑った後に血糖値を測った糖尿病患者の人はそんなに上がらなかったとか、そういった研究も紹介されていますが、ユングは笑いの効果が世に知られる前からよく高笑いをしている人だったそうです。人間は自分がいつか死ぬということを知っているから、どうしても笑いが必要だということを無意識に分かっているのでしょうか。うーん。

 

3.心と体の境界ー玉木正之さんと

3章は心と体についてです。玉木正之さんはスポーツライター、音楽評論家として著名な方です。
心はボーダーを破っていけるものという一方で、スポーツでも音楽でも、すぐなんでも心のことばかり言い出すのはアホくさいというところから始まります。

確かに精神の勝負とか気持ちを込めた演奏だとかよく言われるけど、心を込めるにはやはりまず体がなっていないとだめだと。特に日本はなんでもよく心や気持ちに持っていきたがるところがあるけど、まずしっかりした技術がなければ心も決まらない。スポーツにせよ音楽にせよ芸術にせよ、まず型を学ぶところから、まずは師匠の技を盗め、とか言いますが、心・技・体というのはそれぞれ独立したものではないのかもしれませんね。心も体もどっちがどっちか分からないくらい一緒なもの、というようなことは河合さんの色んな著作で見かける言葉です。

また、文化によるスポーツの比較から日米野球の比較の話になり、日本の体育の授業から言語性、宗教性まで、多岐に渡る話で勉強になりました。

スポーツは元々葬祭教義であり、神々の肉体に近づこうとするのがスポーツ、神々を讃えるのが音楽や芸術、神々の信託を伺うのがギャンブル(笑)と言っておられます。

 

日本の野球で肩が強いことは「強肩」というが、アメリカではストロング・アーム。
日本には肩に関する言葉が多いがアメリカにはあまりない。肩がこる、肩身が狭い、肩の力を抜く、日本にきて初めて肩がこるという言葉を知ったアメリカ人が日本にきてから肩がこるようになったという話も印象的でした。

日本人は「道」として心・技・体を一つにすることに長けているから、心と体の流動性も高く、よって肩もこりやすいし、腰痛も起こりやすい、というのも確かにあるものなんでしょうか。

 

日本人は「道」として競技をやっているから千本ノックなんかやっているけど、アメリカ人選手からみたら「苦しんでやっているわりに大して上手くなりませんね(笑)」なんていって馬鹿らしくみえる。実際にルールに則った試合の場では、「道」としてやっている日本人より、強い体、強い心として合理的にやっている欧米の方が強かったりする。もっともそこは生まれ持っての体格の違いもあるでしょうし、柔道とか日本生まれのスポーツでは日本人も強さを発揮しているところもありますが、やっぱり日本人は勝ち負け以上にスポーツを通じた心の成長や仲間意識なんてものを大事にしているところがある。先に出した心や精神の話になってしまうけど、そういった心の部分も馬鹿にできないし、大切なところだという気がします。先輩後輩の関係の強さなど、一概に良いといえない文化もまた入ってしまっていますが。

 

日本ではプロでない競技を草野球、と言いますが、アメリカでは反対にプロが芝生でやり、草野球のことをサンドロッドゲーム(空地の砂の上でやるゲーム)という。

神社も寺の境内も神聖なところとして雑草が生えていないように、草はどこにでも生えてくるものとして、日本は学校のグラウンドは神聖な教育の場として草を抜いた。こういった文化的背景なども影響していて面白いところです。

 

4.人間だけが「自分病」を持つー森村泰昌さんと

森村さんは美術家で、セルフポートレイトの作品で有名な方です。自分がモナリザ肖像画になりきった作品などが有名なようです。
色んな著名な作品のモネマネのような作品を作られている森村さんとの対談の中では、自分とはなんなのかという、アイデンティティに関する話が繰り広げられています。

人間は誰でも成長していくにつれ演技をしていて、小学生になったら小学生らしい演技、大人になったら大人らしい演技をして、とその演技をしていくうちに板についていって、それが自分の素顔になっていくんではないかというのが森村さんの見解です。

 

確かに私たちは皆その場に相応しい立ち振る舞いをして、それが一つの自分の自我として確立せれていく、というのはいわゆるペルソナですね。
職場では警察官なら警察官らしい振舞い、家に帰れば父親としての振る舞い、または夫としての振る舞い、というように誰にでもいくつもの顔はあるけど、本当の自分はどの自分なのか、って言われてみると確かによく分からない。

河合さんもそこについては、厳密に言い出すと本当の自分は誰にも分からないんじゃないだろうかと言っておられますが、本書の中や他の著作での河合さんの言葉からも考えると、心と体も切り離したものではないように、別にどの自分も本当は区別なんかなくて、どれも全て本当なのではないかという気になります。

また、そのような演技、フリをすることから美術や芸術、文化の成熟という話にまで繋がっていきます。
例えば、食べたことのないような異国の料理が最初は受け付けなかったりする、でもそれを美味しいと言っている人もいるのだから美味しいフリをして食べていたりすると、いつしか本当に美味しいと感じるようになる。
大人が美味しいといって飲んでいるビールも最初は何が美味しいのか分からないけど、美味しいというようなフリをして飲んでいたら本当に美味いしく感じてくることもまた同じですね。
子供はどうしても甘いものが好きだけど、そこのプラスアルファして、味には辛いものや苦いもの、色んな味があるということを知ることが、人間的成熟、文化の成熟に繋がる。

 

何か未知のものに対する「こわい」という感覚が広い意味でのスリル的楽しさであり、インタレスティングの面白いとはまた別の楽しい。
ゆとり教育」はそういう「こわい」ものを見せるためのゆとりであって、「ゆるみ」になってはいけないというのが河合さんの持論ですが、日本ではなんでもゆるみ教育になってしまっていると。先生が知っているようなことをちょっとずつ習っていくのが学力ということになっているけど、そんなのはナンセンスで、未知の世界があることを「こわい」という緊張感の中で知っていくのが本当の学びだというのは、子供だけでなく、我々大人にとっても非常に大事なことですね。


現代は、子供が大人へと成長していく中で、子供をつくっている構成要素を一度バラバラにして再構成していく時に、影響されるものが多すぎて「われ」が分からなくなる。
「われ」を再構成する時に、昔は両親や先生といった人達にしがみついていたのが、そういった人達が憧れの対象ではなくなって、テレビタレントなどにすごく影響されてそういった人達にしがみついている。
なまじ「われ」が強い人ほど、そういった流行の人達になどにしがみつけず、外部に適応しにくいことも起こり得るというのが次のお話です。

「われ」がはっきりしない人の方が色んなものに簡単にしがみついて順風満帆に行っているように見えるけど、中年期になってすごい危機を迎える場合もある。
時代精神にあった「われ」を持っている人もいて、例えばバブル前は華やかにしていたのに、バブルが弾けたりして時代精神が変わるとガツンとやられてしまう人もいる。

先のお話と繋げると、「われ」がはっきりしない人の方がペルソナを被るのも上手いけど、ある時に自分が分からなくなってしまったりもする、というようなことでしょうか。ただ、自分の中に一貫性があるからこそ色んな仮面を被れるというのもある。なんだかよく分からなくなってきましたが、ある時上手くいっていた人が急に鬱になってしまったり、若い時周りと適応できなくて苦労した人が中年以降大成したりと、やはり人間は一筋縄ではいかないということを思い知らされます。

一方、芸術というのは、お金もない、人間関係もボロボロ、普通じゃない精神状態のような人からすごいものが生み出されたりする、そういった側面もあると語られています。一章の想像力が発酵するまでは光を当てるべきでない、という話とも重なるところがありますが、色んなものが腐りかけになるギリギリのところでいいものが出てくる。

人間誰しも無意識の部分には不健全な部分があるように、必ずしも健全な状態が正しいとは限らないというわけですね。文化の話となるとなんでも健全なものばかりを認めようとするけれども、本当に健全というのは、不健全というのを認めているはずだと。人間だけが自分、自分と自分というものをすごく気にする存在である、それ自体が不健全とも言えるし、不健全な状態こそ人間の素なのかもしれないですね。

 

5.宇宙のハーモニーを聴くー宮田まゆみさんと

宮田まゆみさんは「笙」という珍しい楽器の奏者です。笙は雅楽で使われる中国伝来の楽器ですね。
宮田さんは元々ピアノをやられていたそうなんですが、そこから笙を始めるきっかけになったエピソードが、まさに心の無意識から音楽が出てきたような、神秘的な話で印象に残ったので引用します。

直接のきっかけというのが、自分でも不思議なんですけど、なんか光が雲間から射してきたような、それこそ放射線状の。五月の十日ごろ、ちょうど新緑がはじまるころで、一週間ぐらい降り続いた雨がやんだ夕方、西の空の雲間から光が射していたんです。それを電車に乗って、ドアのところに立っているときに見ていたら、急にまわりの音が聞こえなくなり、その光の音が聞こえたような気がしたんです。その聞こえたというか、言葉では表現できない感じですけど、なんかドキドキしてきて、自分の内側から揺さぶられて出てきたっていう感じがして、その音が笙の音だったような気がするんです。

多分どこかで笙の音を聞いていたことがあったのが、心の中に溜まっていて、それでふとした時に内側から出てきた。なんとなく雅楽全体が思い浮かんだので、家に帰ってレコードを聞いてみたら、まさにそんな感じの音だった。宮田さんは笙と出会うまではかなり精神的に不安的だった時期もあったそうなんですが、笙と出会ってからはそういったことがなくなったというのもまた不思議です。

 

音というのは形も重さもないけど絶対に存在していて、だから神とか魂に結び付けやすい。音というのはどうしても神秘的なものと結びつく傾向があるとも河合さんはおっしゃっています。
共通感覚のある人は音を聞くと色を感じたりもするそうですが、宮田さんもバッハを聴くと数字が浮かんでくるというので、アーティストタイプの人というのは、自分の無意識と繋がりやすいというか、そういう人を天才と呼ぶんでしょうかね。サヴァン症候群もまたこういった特徴の一つとも言えそうです。

 

色は光の波長で、音も波だから何か相似性みたいなものがあるんでしょうね、と宮田さんがおっしゃるのに対し、そういう中で人間は感覚を無視して言葉を作ってしまう、というのが、この本でも度々出てくる言語性の面でまた印象に残りました。
確かに言葉は文明を作ってきたけど、なんでも言葉にして概念を固定化してしまうと、人生が貧しくなることもある。感覚でなく言葉に頼り過ぎたら頭でっかちになって、せっかく生きてるのに生きてる感じがしなくなってしまう、というのはまさに現代人に当てはまることのように思います。


今は人間が楽しむものとして音楽をやっているが、元々は神様と交信するために音楽はあった。先に見てきたスポーツにしろ芸術にしろ、大元は神様に近づいたり神様を讃えたりするために宗教から始まっており、そうやって技を極めていったりする中で、ゾーンに入ったりトランス状態になったりする。それも宗教でいう悟りといわば同じことのように感じますね。

 

古典的な音楽には宇宙の大きな空間のようなものを感じるという話や、笙の音は宇宙線のような音に聞こえるとういう話も出てきて、音楽というのは本来は東洋的とか西洋的とか分けられるべきではなく、本当の音というものは自分の内側から出てくる、その本当の自分の内側というのも普段の意識からはずっと遠く離れたところにあって、というような、なんだか途方もない宇宙的ところまでいって、人間の無意識は宇宙のようなものかもしれないと思うととても興奮させられました。

全ては呼応していて、内も外も無い、分かったようで分からないような、という感じです。

 

6.大人のつとめー今江祥智さんと

最後のこの章は、児童文学作家の今江祥智さんとの対談です。
まずは土地の霊力的磁場、いわゆる一章でも出てきて地母信仰とも繋がるような話から、児童文学者として宮崎駿さんの千と千尋の神隠しも磁場の一種だという、興味深い話がありました。自分はラピュタとかもののけみたいな分かりやすい方が好きだったんですが、今江さんによると「千と千尋」は宮崎さんのメッセージ性がほどよく抑えてあって、アニメーションでしか表現できない世界観とおっしゃっていてまた改めて見てみたい気分になりました。千と千尋の異界の「こわさ」というのは4章の森村さんのお話とも通ずるところですね。

この章では家族としての在り方から、読書についての話など、実際的な話も多く身に積まされる思いでした。
昔の日本の家は大家族で、祖父祖母や、叔父さんだったり叔母さんだったりが「魂」の導き手の役割を果たしているところもあった、しかし今の核家族では父親と母親だけで子供を育てる、お金も稼ぐ、という物理的に厳しい中で子供の道徳的教育まで行うのが難しい。親が教えられないというよりは、触れ合う大人がほとんど父親と母親で、そういった中で子供が「異界」に触れる機会が少ないのは一つ子供の成長を妨げる要因のようにも思えました。

今江さんの実体験でいうと、父には母公認の「二号さん」がいて、子供ながらにたまにやってきて上等なおもちゃを思ってきてくれたりする綺麗な二号さんは、まさに異界から来た人みたいだったと。今はデジタルで知ろうと思えばなんでも知れる時代でもありますが、そういった親や教師が教えてあげるだけではない世界というものを子供に教えてあげる役割をしてくれる人が身近にいるのは大事だな、と漠然と思いました。

また、最近は子供や大学生が本を読まなくなったことも河合さんここで嘆いておられます。これも4章で少し出た教育の話とも繋がるところですが、最近は先生が知っているたった一つの答えだけが正解で、それ以外は不正解、正しい答えを早く知って、たくさん覚えているやつが勝ちだとみんな思っているが、それは大間違い。
私が子供の頃から、教えられることだけじゃなく、自分で考えることが大事、などとは言われてきましたが、実際に学校という場で本当の学び、ということをする機会は少なかった気がします。
本の重要な部分をさっさっと読んでしまう速読なども近年流行っていますが、河合さんはおもしろい本というのを端から端まで読むことが大事だと言っておられます。

ショーペンハウエルも「読書について」で、良い本を何度も読むこと、悪書を読むな、と語っていましたが、確かに読書は大事だが、良い本を精読すること、やはりこれが読書の真髄なのでしょうかね。
おもしろいことをやろうと思ったら無駄をしないと駄目なのに、なんでも近道ばかり教えて、効率ばかり重視している。無駄が大事、というのもゆとり教育で目指したところかもしれませんが、日本ではそれがただの「ゆるみ」になっている、というのも先に出た話ですね。


ITのおかげで日々触れる情報も圧倒的に増えて、あらゆるスピードが速くなった今こそ、手で触れられるものや、心の底から湧き上がってくるものが大切、ということを本当に実感させてくれました。

 

  • まとめ

内容も多岐に渡り、学術的な部分もあり難しいところもありましたが、人の心について、色んな側面からアプローチした、とても知的好奇心をくすぐってくれる本でした。
ありきたりではありますが、現代ほど科学が発展しても、まだまだ人の心には理解できない宇宙が広がっていることが面白いところです。河合さんの本は、特別な知識などなくても、難しいけどなんか分かる、といういい具合に崩して語ってあるのでとても読みやすいのでおすすめです。