テレビを捨てて本を読もう

ただの本の感想、紹介、アウトプット用のブログです

【感想・紹介】こころの読書教室/心理学を知ると読書がもっと楽しくなる

前回に続き、また河合隼雄さんの本の紹介です。

ドストエフスキー夏目漱石村上春樹など、自分も最近読んだのですが、こういった解釈の難しい著名な作家の作品について、心理学の権威の立場から解説してくれている本だというので、ぜひにと思って手に取ったんですが、これもまた壮大な人間の心の世界に触れられた素晴らしい内容でした。

 

こちらは河合さんのおすすめの本を、ユング心理学の学問的視点から解釈しつつ紹介してくれるという内容なのですが、心理学の難しい内容もあるところを、河合さんらしい砕けた調子で分かりやすく解説してくださり、分かりやすいんだけど、言葉だけでは分からないような漠然とした人の心のものすごく深いところも感じられて、また人生観がちょっと変えられたような感覚すらありました。

 

こころの読書教室 (新潮文庫)

こころの読書教室 (新潮文庫)

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 2014/01/29
  • メディア: 文庫
 

 

全4章から成っていって、1章につき「まず読んで欲しい本」が5冊、「もっと読んでみたい人のために」という本が5冊ずつで、本書の中で紹介されているだけでも40冊もありますが、河合さんの紹介を読んでいると、どれもこれも読みたくなってしまってまた読みたい本が増えてしまいました。

 

 

それでは1章から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ 私と”それ”

 

”それ”とは無意識のことです。ユングの師であった精神分析の祖フロイトは、自分の心の奥底の見えない部分、「無意識」について、無意識という領域があることは分かる、でもそれがなんなのかはよくが分からない、よって「”それ”ということにしておこう」ということでドイツ語で”エス”=”それ”としたとのことです。

 

ノイローゼとか精神疾患のある人が無意識の影響を受けて急にパニックになったりした時、学術的に「自我がエスの侵入を受けて」なんて言ったりすると大変なことのようですが、「私は”それ”にやられた」くらいの感じがフロイトの言っているニュアンスに近いところみたいですね。

 

私たちが普段自分の心として意識している部分「自我」は氷山の一角に過ぎず、深層心理である「無意識」こそが心の大部分を占めていることはご存知の方も多いと思いますが、作家の方々はそういった人間の心の無意識、”それ”の部分を驚くほど上手く描いておられるというのがこの章で言っておられることです。

 

山田太一さんの「遠くの声を探して」という作品は、河合さんから見ても非常に上手く人間が精神病になっていく過程が描かれており、精神分析精神病理学についてよく勉強して描かれたものと思っていたそうですが、山田さんは全く意図せずそのように優れた作品を書き上げたそうです。

 

 

河合さんはむしろ、人の精神などについてよく勉強して、こういう風に書いてやろうなどと思うと逆に面白くなくなってしまうとも言っています。先日感想を書いた河合さんの別の著書、「人のこころがつくりだすもの」でも触れられていましたが、何か創作をするにあたっては、下手に自分の感覚を言語化して定義しようとしたりすると駄目になってしまうこともあるということですね。小説も芸術である以上、優れた作品というのは、自分の無意識の世界から湧き上がってきたものを巧みに表現したものといえるでしょう。

 

ただ、無意識の世界に触れるということは、心の深いマイナスの面に入り込んでいくことでもあり、非常にハードなことであるといいます。
村上春樹さんもそういった人間の無意識の世界を表現することに優れた作家だそうで、村上さんの作品は2章で語られますが、以前読んだ村上さんのエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」でも同じようなことを書かれていたので思い出しました。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/06/10
  • メディア: ペーパーバック
 

 

村上さんはほぼ毎日平均10km単位でランニングをしており、マラソン大会にも定期的に参加しているそうなのですが、創作というものは得てして不健康なものであり、そういった不健康なものを扱いきれるだけの体力が必要であると語っていました。

作家や芸術家やアーティストなど、創作をする人というのは得てして精神を病んだり果ては自殺してしまったり、という人も珍しくないですが、自分の無意識を扱うということはそれだけ自らに負担をかけることだというのが想像できます。


ストレス解消や健康には運動がいいとか、筋トレが最強のソリューションだとか最近も一層運動のメリットが色んな観点から語られていますが、心と体は不可分であり密接に影響しあっているものと河合さんも度々語られています。こちらの村上さんのエッセイでも、健康にいいとかそういった表面的な話を超えて運動に関する村上さんの哲学がちりばめられていて、もっと本質的なところで体を動すということは生きていく上で切っても切り離せないんだなということが感じられて大変面白かったです。


読んだ当時は作家という仕事はかなりの体力仕事というのもいまいちピンと来てなかったところもあったんですが、今回この河合さんの本を読んで今繋がってきました。
こうやって点と点が繋がって色んなことが自分の中で納得がおきていくのも読書の楽しみの一つですね。


完全に横道に逸れてしまったのですがこちらの村上さんのエッセイは小説を読んだことがない方でもおすすめです。村上さんは小説よりエッセイの方が面白いんじゃないかと思うことがあります。

 

 

ちょっと脱線しましたが、河合さんがこの章で他に語っているのが、ドストエフスキー「二重身」カフカ「変身」です。

 

変身

変身

 

 

二重人格 (岩波文庫)

二重人格 (岩波文庫)

 

 
どちらも有名な作品なのに恥ずかしながらまだ読んでいないのですが、この二つも無意識のマイナスの面にやられてしまっていく様子が上手く描かれた本とのことです。カフカの変身の方はあらすじは知っているんですが、人間が朝起きたら虫になっていた、というのがまさに自分が”それ”になってしまったことをとても上手く描いているそうです。現代のひきこもりとかがまさにこの虫のような精神状態だそうで、カフカもかなりギリギリの精神状態だったんではないかと推察されています。本当に創作をするというのは大変なことで、狂気と正気のギリギリのところで生きていることだと本書では言われています。そう思って小説を読んだりするとまた見方も変わってくる気がします。

 

例えば戦争になると意外にも精神病は極端に減って、物質的に満たされている時の方が精神病は多いというのは、戦争なんかしてると自分の内側のことなんて気にしてられなくて、外の世界と必死で関わっていなくちゃいけないど、下手に食うに困らないとどうしても自分の内に向かうことが多くなる。自分の無意識のマイナスの部分と戦うのは大変なことだけど、無意識というのは悪い面ではなく良い面も描いた作品も紹介されています。

 

無意識の良い面について、フィリパ・ピアスという海外作家の「トムは真夜中の庭で」という本を紹介しながら語られています。
こちらは児童文学だそうですが、本書の中でも度々河合さんは児童文学をおすすめの作品に上げられていますし、色んなところでも児童文学について語られているようです。
こちらも調べてみたらかなり有名な作品で、「時」をテーマにした小説の古典的作品です。海外では何度もドラマ化などもされているようです。

 

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

 

 

自分も読んだことはないのですが、おおまかなあらすじは、両親の下から知り合いの老夫婦の家に預けられたトムが、真夜中に知らない庭に迷い込んで不思議な体験をする、という、色んな創作の原型のような内容なんですが、読んでことがなくても河合さんの解説を読んでいる本当に読みたくなってきます。

本当は読みたいと思った本は出来るだけネタバレも避けたいんですが、本書の中で大体の展開がネタバレされてしまっていました(笑)
しかしトムが真夜中に不思議な庭に入り込んで女の子と出会う、でもそこは現実の時間と違うから時間の流れもぐちゃぐちゃ、など無意識の世界で異性と会うことや時間の流れなどが心理学の世界で意味することが解説してあって、内容が分かってしまってもぜひ読んでみたくなりました。

ここではトムが預けられた家のおばあさんがキーパーソンとして語られているんですが、一見家で寝ているだけのおばあさんが実は少年の心の成長をすごく助けているんではないかという河合さんの私見が素晴らしいなと思いました。

先に紹介した「人のこころがつくりだすもの」でも、河合さんは今の核家族の両親だけで子供の「たましいの導き手」になるのは難しく、親戚のおじちゃんとかが人知れずそういった役割を果たしていた、ようなことを言っておられましたが、ここで仰られていることもまさにそのようなことなんじゃないかと繋がってきました。

 

少年が心の中で感じることが心の成長であって、一緒に家にいるおばあちゃんが寝ているだけだったとしても、ただ両親が説教するだけでは教えることができないことを知らず知らずおばあちゃんに教わって、たましいが導かれているのではないかということ、そういったこともあるんじゃないかということを河合さんは言っておられます。一見何もしてないよう見えるおじいちゃんおばあちゃんが家族から煙たがられたりもする、でもただおじいちゃんおばあちゃんがそこにいてくれることが、すごく深いところで子供の心の発達に役に立っていたりする、これは効率や結果だけがますます重視されるようになった今の世の中、忘れられつつある感覚なんじゃないかと思います。でも実は目に見えないところ、無意識の世界ですごく役に立っていたりする、こういう考えは大事にしないといけないと思いました。

 

あと無意識の世界の良い面について語ったもう一冊「日本の弓術」、これまで挙げた文学系とは全く違う本ですが、弓術の達人が「撃とうとしてはいけない」、「矢を離そうと思ってはいけない」、すごく感覚的な達人っぽいことをいうけど欧米人からしたら全然分からなくて思うようにできない、でも達人は的が全く見えない真夜中でも当てることができる。いわゆるブルースリーの「考えるな、感じろ」について無意識の側面から解説してあります。
ざっくりいうと達人の域に達したような人達は無意識を上手く使っているということですかね。

 

日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)

 

 

 

「もっと読んでみたい人のために」として、主に取り上げられた5冊の他にさらに

5冊、軽く触れてあるのでメモも兼ねて挙げておきます。

 

もう一人の私

もう一人の私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたらしいぼく
 

 

 

Ⅱ 心の深み

2章でまず紹介されるのは村上春樹さんのアフターダークです。

 

アフターダーク (講談社文庫)

アフターダーク (講談社文庫)

 

 

今村上さんの長編を初期から順番に読んでいってるので、内容がネタバレされるのはちょっと・・・と思ったんですが、これもまた村上作品について理解を深めてくれるお話でした。

僕も村上作品はアマゾンの某レビューとかハルキストとか濃いファンが多いというのもあって敬遠してたんですけど、「羊を巡る冒険」とか「ねじまき鳥クロニクル」は内面的部分だけじゃなく娯楽的な部分でも結構面白くて不本意にもハマってしまいました。
先に挙げたように村上さんも非常に深層心理の世界を上手く描く作家だそうですが、そんなに意識して書いてるわけではないそうです。
村上さんの作品でよく「井戸」が出てくるのも、ラテン語でイド=”それ”ということなので、ある程度は心理学を下敷きにしておられるかもしれませんが、心理学についての本もそんなに読まれるわけではないそうですね。

 

アフターダークはまだ読んでないので詳しいところは知らないのですが、ずっと眠り続ける病気にかかってしまった姉エリさんと、眠らなくなった妹マリさんの話だそうです。姉はすごく美人なのに妹の方は普通で、そこにまた兄弟姉妹特有の葛藤があったりするそうなんですが・・・
眠らなくなった女性の話は確か短編集のTVピープルにもありましたね。そちらが原案だったんでしょうか。

 

ここでの紹介の中で印象に残ったのは、河合さんが村上作品を読んでいて思うのは、一人の人間を生かすために全世界が共鳴して動いてくれいる感じがすることが多い、ということですかね。自分は自分の身の回りのことしか分かっていないけど、自分の無意識と呼応して世界では色々なことが起こっていて、それが私を生かしてくれている。

 

内界と外界は思っている以上に呼応していて、シンクロニシティが起こることがある、というのも河合さんが度々言っておられることです。
色んなことが巡り巡って、今自分がここに生きていられる、というのはバタフライエフェクトの理論とも通ずるところでしょうか。

 

そういうことを含めてか、人一人が変わるということは、カウンセラーとしての河合さんの職業的立場から見ても、本当に全世界を変えるくらい大変なことだといいます。
人を変えるのは難しいなんてよく言うけど、人が何か変化することによって、ほんの少しの変化が周りの色んなことに影響していって、世界のどこかに人知れず大きな影響を生んでいるのかもしれない、などと思うと本当に人が変わるというのは本当に大変なことな気がしてきます。省エネのためにまず出来ることから、とかいって家を出る時は電気のスイッチを切ったりとか不要なレジ袋を貰わないとかよく言いますけど、一人の小さい行動もあながち馬鹿にできないかもしれないですね。

 

 それでこのアフターダークの中で主人公の主人公、眠らない妹マリさんは姉に対する葛藤とか色々ありつつも、眠り続ける姉をなんとかしようと色々大変なこともありながら姉が目覚めて最後に本当に深い所で癒しが起こる、と簡単にいうとそういう流れだそうなんですが、よく癒し系とかいって音楽を聴いて癒されたとか美味しい物を食べて癒されたとか言いますけど、本当の意味での癒しというのは、そういった表面的な世界でのことではなく、もっと深い次元の話であるということが描かれているわけですね。

自分の無意識と呼応して外界で起こっている姉の眠りを覚ますということ、つまり自分の無意識の深い所を癒すにはそれこそ世界を変えるほどのエネルギーが必要だということを河合さんは言っておられれます。

 

河合さんと村上さんの対談村上春樹河合隼雄に会いに行く」でも触れられているんですが、「ねじまき鳥クロニクル」で主人公が井戸の壁を抜けて妻を救おうとすることもまた、井戸="それ"(無意識)を掘り進んで、他者の無意識と繋がるくらいの強いエネルギーが必要なことだと対談の中に出てきました。
安易に結婚に幸せを求めがちだったりしますが、男女が一緒になるということはそんな生半可なことではないと、井戸を掘って、掘り進めていくと、そこで全く繋がることない壁を越えて繋がることがある、ここではコミットメントとデタッチメントという言葉をキーワードにして語られていましたが、そうやってなんとか大変な中でコミットメント=つまり関わりを持とうとすることで初めて分かることがあるということですね。

近年若い世代はデタッチメント=つまり無関心、若者の~離れのように色んなことに自分から積極的に関わりを持たなくなってきているといいますけど、結婚にしても価値観の違いだとか色んなトラブルですぐ最近はデタッチメント=離婚になってしまう、でもそこからコミットメントして掘り進めていくことで見える世界がある、ということがまた価値観を改められた本でもありました。
こちらの感想もまた別でそのうち書きたいと思います。


 

次に紹介されているのが遠藤周作さんの「スキャンダル」です。

 

スキャンダル(新潮文庫)

スキャンダル(新潮文庫)

 

遠藤周作さんも非常に著名な作家ですがこちらも恥ずかしながら全く読んだことがありません。この小説は文字通り主人公がスキャンダルの話です。主人公は自分に身に覚えのないスキャンダルに悩まされるが、それは主人公の二重人格の話なのか集団幻視の話なのか、実際何が本当なのかよく分からないようにすごく上手く描かれていて、こういった作品こそ本当のミステリー小説なのではないかと河合さんは言っておられます。

 

心の深層心理に入っていくということは自分のマイナスの部分に触れることだと一章でもありましたが、自分の深い、魂とでも呼べるような世界へ行こうと思うとその通路はスキャンダルに満ちていると、河合さんが文庫本の解説で書いておられるそうです。

ただやはり深層心理の負の面というのは悪いばかりではなくて、確かに人間は自分の心の深いところで色んな罪深いもの、悪とでもいうものを抱えているけれども、罪の中にも光があって、その罪を通じて再生できる、ということがあることも遠藤さんは描いておられるそうです。
罪を通じて再生するというとやっぱりドストエフスキーを思い浮かべますね。「罪と罰」は読んだことないですが、「カラマーゾフの兄弟」でも長男ドミートリィが罪を通じて再生していく姿が描かれていました。


ただなんでもかんでも罪が許されて光に包まれるわけでもないし、聖人といわれるような人でも心の底には悪い部分があるから駄目だというわけでもなく、結局人間をこうだと定義するんじゃなく、人間の存在自体がミステリーという見方をすればいいんじゃないかというのが河合さんの意見です。

 

言ってしまえば人間の心なんて誰にも分からない、そう言うと随分雑な気がしないでもないですが、その人がどんな人間かなんて本当のところは分からない、くらいに思っていた方が面白いんじゃないか、そんな風にも思います。今の世の中「こいつはこうだからこういう人間だ」みたいな、例えば有名人が何か不祥事を起こしたらその人の人間性についてなんでもかんでも白黒つけようとしすぎるところがありますが、外から見える人の姿なんてほんの僅かな部分にすぎない。人間を分からない物とした上で、人間の無意識に目を向ければ、それによって人間に対する洞察も深まるんではないかと思うのです。

 

次に紹介されるのが「道化の民俗学です。

 

道化の民俗学 (岩波現代文庫)

道化の民俗学 (岩波現代文庫)

  • 作者:山口 昌男
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: 文庫
 

 

 道化というとピエロとかジョーカーとか、物語を引っ掻き回す役割を思い浮かべるかと思いますが、ユング心理学では、トリックスターと呼ばれ無意識の世界で大事な意味を持つそうです。
道化とは世界中の色んな物語にも出てきて、あえて王様を騙したりして話を展開させますが、何か秩序を破壊して新しい秩序を作る時にこのトリックスターとしての役割が重要になってきます。

例えば私たちの意識というのはある程度体系だった秩序を持っているから普通に生活していけるわけだけど、それが急にめちゃくちゃなことを言いだしたりしたら困る。
昨日までは米が好きですと言っていたのに、次の日には米は嫌いです、パンが好きです、とか言い出しても周りは混乱する。
いわば私たちの自我というのは一つの秩序で形成された”王国”のようなものですが、自我というものがだんだん広がっていくためには、中心にだけ留まっていたらだめで、王様を騙したりしてその王国の秩序を破壊して新しい秩序を生み出すのがトリックスターということですね

国というのは建前では自分の国が一番で、王様自身が他の国の方が優れてるとは認めるわけにはいかない、そんな中で王様を騙したり言い包めて、代わりに他の国と交易したりしてより国を発展させたりする。下手をすると王様の怒りを買って処刑されかねないところもあるんですが、あいつはまた馬鹿なことやってる、という風にうまく立ち回る。王様は道化がいないと成り立たない、王様と道化は対の存在だとここでは言っておられます。

 

例えば、私たちも何か言いにくいことを言ったりする時とか、普段自分が言わないようなことを言ったりする時、あえて冗談で言って誤魔化してみるようなことってないですかね?あれも道化の一種なのかなーと思ったりもしました。
先日感想を書いた同じ河合さんの本「人の心がつくりだすもの」で触れた、”笑って誤魔化す”、というのも道化のやり方に近い気がしますね。
これから色んな作品に出てくる道化にも着目してみたいものです。

 

 

次に、人間の心の奥底について、マイナスの面が描かれる作品は多いですが、逆にものすごく美しいとか、すごいやさしいとか、普通の世界では考えられないような輝きを持ったプラスの面もある、それを非常に上手く描く作家として吉本ばななさんが挙げられています。今回取り上げられているのはハゴロモという作品です。

 

ハゴロモ (新潮文庫)

ハゴロモ (新潮文庫)

 

 無意識の世界には恐ろしいものがたくさん潜んでいると前章から述べられて来ましたが、河合さんがユング心理学について話す例として日本人にとって分かりやすいもので、「グレートマザー」という概念を色んな所で話しておられるそうです。少し前の時代まで「お母さん」というのは「なんだか呼びたくなるお母さん」として絶対的な善の象徴のようなものだったのが、母親の恐ろしい面としてのグレートマザー、それが心理学の世界では広く知られることとなりました。

子供の自立を妨害して自分の中に引きずり込んでしまうという、いいお母さんだけじゃなくて悪いお母さんという負の面もある、ということなんですが、心理学の発展に伴い母親の愛情の弊害の面が色々取り上げられるようになってしまった。もちろんそういった負の面もあるにはあるかもしれませんが、母性には常識では捕まえられないようなすごい母親像もちゃんとある。そんなお母さんの概念を超えたすごいお母さんを書いた本としてこの「ハゴロモ」は素晴らしい本だそうです。

 

また、吉本ばななさんは「シンクロニシティ」を描くのが非常に上手い作家でもあるそうです。先ほどアフターダークのところでも少し触れましたが、シンクロニシティは日本語に訳すると共時性、意味のある偶然ということですね。理屈では説明できないけど、偶然とは思えないような不思議な現象が同時に起こる。虫の知らせとか夢枕とかがそうですね。説明はできないけど、そういうことはとにかく起こるし、無意識の深いところに行けば行くほどよく起こるんじゃないかと河合さんは言っておられます。

 

引き寄せの法則とかマーフィーの法則は潜在意識に願望を刷り込むことで願いを叶える方法として有名ですが、自分の無意識の世界でのことが表層の世界に出てくるというのはシンクロニシティと似通ったところでもありますね。
最新の物理学の世界でも、何もない真空の中にも膨大なエネルギーがあり、過去・現在・未来の全ての出来事の記憶が真空の量子空間の中に記録されているという「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という仮説すらあるそうです。
ユングの提唱した集合的無意識も個人の経験を超えた人類共通の記憶があるといいますが、まるでアカシックレコードのようなものが本当に存在するんじゃないかと思えるようなロマンのある話ですね。

話が逸れましたが、吉本ばななさんの作品で「アムリタ」シンクロニシティが上手く書かれた作品だそうです。

 

アムリタ (上)

アムリタ (上)

 

 私も吉本ばななさんは読んだことがなかったんですが、本書を通じて読んでみたくなった作家の一人です。

 

 

この章で最後に紹介されているのは、「あの頃はフリードリヒがいた」という本です。

 

 ナチス政権時代に同じアパートに住んでいたユダヤ人の友達がいたが、迫害されて最後は・・・という暗い内容ですが、人間の中の「悪」がピタリと書いてある、まさにそんな本だそうです。人間誰しも悪人を憎みつつも自分は大丈夫だ、と思っていところがありますが、そういうところがあるとどうしてもどこか他人事のようになってしまいがちです。でもこの本はよくある昔話風などではなく、ある特定の時期に確かに起こったこととして、人間というのはこういうことがある、というのを分からせてくれるすごい作品だそうです。この訳者の上田真而子さんの訳が素晴らしく、この方が訳した児童文学はどれも素晴らしいそうです。

 

長くなりましたがここでも補足の5冊を挙げたいと思いますが、吉本ばななさんの「アムリタ」は先に挙げたので残りの4冊になります。

 

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

 

 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

  • 作者:井筒 俊彦
  • 発売日: 1980/05/20
  • メディア: 新書
 

 

ジョコンダ夫人の肖像

ジョコンダ夫人の肖像

 

 

 

Ⅲ 内なる異性

 

三章は内なる異性についてです。内なる異性とは文字通り自分の中の異性で、男性なら自分の中に女性性を、女性であれば自分の中に男性性を秘めているとうことです。
ユングは内面の異性像に強く着目した心理学者でもあります。この章ではユング心理学における人間の中の内なる異性について興味深いことがたくさん書かれているのですが、あまりにも長くなりそうなので簡単に取り上げようと思います。

 

まず内なる異性について語る前にこれまでも度々出てきた「魂」とはなんぞやというところから入っていく必要があるのですが、河合さんが支持している考え方の一つに、ユング派の分析家のジェームズ・ヒルマンという人が語った、「魂という実体があるのではない」「魂ということを大切にするということは、世界に対する自分の見方を表しているのだ」という言葉があります。これだけ見るとなんのこっちゃという感じですが、私たちは普段は二分法といって、天と地、善と悪、光と闇、というように、物事を全て分割することで世界を認識しています。

しかしそういう風に二分法ではない見方があり、それが魂だとここでは語られています。心と体にしてもそうで、心と体は本来分けて考えられるものではなく、心と体だけではないもう一つわけの分からないものがあって、それが魂ではないかという考え方です。

それでも私も完全に理解してるとは言い難いんですが、結局全ては一つなんじゃないかというのが最近思うことですね。物理学の世界では、そもそも物質とは存在せず、全てエネルギー、つまり波動によって構成されており、私たちが自分の体と認識しているものも身の回りのものも、感覚による錯覚でしかないと言います。
そう言われると自分の存在も根底から覆されてしまうような感じもしますが、私たちが認識していることって言葉によって定義された概念でしかないですからね。

特に日本人は万物に魂が宿るという言い方をして、至るところに八百万の神がいるとする多神教の考えをしますが、それも核心を突いたことのように思います。この世界に存在しているものが全て波動の集合体であるなら、本当に魂は至るところに存在しているわけですからね。全てが波動であるなら、神は一つという一神教のアプローチも分かる気はしますが。

 

話が全く逸れてしまいましたが、ユングの考えでは、内なる異性とは我々の外に投影される、つまり私たちが理想の相手と思うような人は私たちの魂を反映しているということです。
もちろん美男美女を好んだりするのは人間も動物である以上本能的部分もあるんでしょうし、生物学的観点から見ると自分と相性のいい遺伝子を持った相手を本能で見分けているということなんでしょうけど、心理学の側面から見ると、私たちが「なんであんな相手を好きになったんだろう」とか何故か惹かれてしまう、理屈抜きで好きになってしまう相手というのは、自分の魂を大事にしたいから好きになる、自分の内なる異性が投影されているという考え方です。面白いですね。
恋愛小説は小説の中でも定番中の定番ですが、なぜみんな恋愛が好きなのかもこの魂の考え方を元にするとなんだか納得できる気がしてきました。もちろん恋愛は子孫を残すための脳のバグとか、色んな見解はあるんでしょうけど、人の心として、お金とか社会的な成功とかか、外的なことで満たされていればいいと思っていても、やはりどこかで自分の魂を充たしてくれる相手を求めているということなのでしょうかね。

特に自分の中の内なる異性は夢の中にもよく出てくるそうで、魂のことをラテン語でアニマというのですが、アニマは女性名詞なので男性の場合は内なる異性はアニマ、女性の場合はアニムスといい、それぞれアニマイメージ、アニムスイメージとして夢に投影されるそうです。

何故かよく男にモテる、女性からするとなんであんな女がいつもモテるのか分からないというような女性は、アニマイメージをそのまま生きているような人で、アニマは無色透明、純粋だから色んな色に変化することが出来る、男から見ると色んなことに付き合ってくれてとても都合がよく見える。逆に女の人から見るとなぜあんな中身もないつまらない女が・・・と見える、という話も印象的でした。恋人としては最高だけど結婚すると大変なことになるそうですが。
逆に女性からするとまさにアニムスのイメージそのまま反映したような男らしい魅力的な人でも、結婚したりするとおかしくなってしまったりすることもあるようです。

 

 ここで紹介されている「七つの人形の恋物語という本は、自殺しようとしていた主人公の少女ムーシュが人形遣いのところに行き、色々な男性を模した人形と関係ができていき、ある一体の人形と恋に落ちるという話だそうです。河合さんいわく男性からすると面白い話だそうですが、別の女性作家の方はこの主人公の女の子はつまらんと言ったそうで、女性から見るとムーシュが都合の良い女のように見えてつまらないと見えることもあるようですね。

七つの人形の恋物語 (角川文庫)

七つの人形の恋物語 (角川文庫)

 

 

 

 

そのまま本の紹介の方に移りたいと思いますが、まず古典文学のとりかえばや物語を挙げられています。

 このとりかえばや物語平安時代に書かれた作者不明の物語ですが、国文学者の先生達の間ではあまり評価されていなかった本だそうです。国文学者の先生達の間では「源氏物語」がやはり原点であり最高の作品で、それ以降は源氏物語の真似をしているだけで段々つまらなくなっていく、この「とりかえばや物語」もエッチな話というか下品な話として解釈されている学者の方が多いそうなんですが、これは平安時代というジェンダーがガチガチに固定された時代において、ジェンダーフリーを唱えているんではないかというとても興味深い作品です。

現代でこそ女性も当たり前のように社会に出て活躍していますが、それはを平安時代において、女の子が男の子として育てられて出世し、男の子は女の子のように育てられて奥ゆかしく生活している、という現代で書いてもかなり物議を醸しそうな先進的な物語が生まれたというのはとても感慨深いです。
二分法で男と女、分けられてはいるものの、そう簡単に分けれるものではない、男と女はもっと交錯してるものだということが平安時代から言われているのはすごいことです。
確かに私たちは生物学的には紛れもなく男と女には区分されるんですが、それも数ある遺伝子の内染色体がほんの少し違うだけの差ですからね・・・実際私たちの内側には男もあり女もある、なんだかとても非常に神秘的な感じがする話です。

読書をするなら時の洗礼に耐えて残っている古典を読むべしと色んなところで言われているし、源氏物語とか文学の礎になっているようなものは読まないといかんとか思いつつも、高校で受けていた古典の授業がいまいち面白くなかったりしたのもあって中々食指が動かなかったんですが、そろそろ読んでみようかなという気になりましたね。

 

 

それから紹介されているのがロミオとジュリエットです。

 

 ロミオとジュリエットといえば知らない人はいないであろうというシェイクスピアの世界的に有名な作品で、純愛作品として映画化や舞台化など色んなジャンルで楽しまれていますが、これもまた単なる純愛ではなく、人の魂を見事に表現した作品であると河合さんの解説を見て改めて読んでみたくなりました。

 

こちらも色々な翻訳で多くの出版社から出版されていますが、河合さんによると松岡和子さんによる訳のものがおすすめのようです。
ロミオとジュリエットは原文では意外にも直接的な卑猥な冗談が多いらしく、日本では性的な部分を訳さなかったり言い換えてあったりするそうなんですが、こちらの訳ではそのままの表現で訳してあるとのことです。
男と女の関係だとセックスは切り離せないものとして文学でもよく描かれますし、セックスは心の繋がりとよくいうように年齢がゆくほど心と体はひとつのもとしてリファインされていきますが、ここでは青少年の不器用さというか、リファインされていない暴力的で性的な部分と、「この人のためなら死ねる」というような純粋な部分と、心と体がまだバラバラな荒々しさとでもいうところがよく表現されているといいます。
まあ自分もディカプリオの現代版の映画でしか見たことないのでよく分からんのですが、教養として小説も一度はしっかり読んでおきたいところです。

ロミオとジュリエットには元々原型となる話があって、そこでジュリエットは16歳だったのをシェイクスピアは14歳に変えたそうですが、魂に直進するすごい力は14歳でこそ表現されやすいと見抜いたのがシェイクスピアの天才性、というところが印象に残りました。
カラマーゾフの兄弟に出てくるリーザも14歳でしたが、確かに年頃の娘の激情というのがまさにこんな感じだと表れていた感じでした。女性は成熟が早いので、16歳は確かに落ち着いてしまっている気もしますね。

 

ロミオとジュリエットはまた悲恋としても知られていますが、多くの悲劇というのは善意の人が張り切って起こす、人間は人間に出来ることとして、神に祈るくらいしかないのに、下手に神に近づこうとするとろくなことがない、というのもまた印象的でした。
良かれと思ってあれこれ動いた結果悲劇になってしまうというのは多くの創作でよくある展開ですが、これも魂の働きはわれわれの常識を超えているということなんですね。

 

 次に紹介するの本が「ねずみ女房」ですが、これは本書の中で紹介されているものの中でもかなり読んでみたいと思った一つですね。
こちらは子供向けの絵本でもありますが、子供向けの作品というのは本当に大人にとっても奥が深く、楽しめるものなんだなと、この解説を読んでいるだけでも感じ取れました。

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)

 

 これはある家の中に住んでいるねずみの一家の、ねずみの奥さんが主人公の話です。家ねずみなので家の中だけが世界だと思っていて、ねずみ達は家の中以外の世界は知らないんですが、他のねずみ達は食べ物のこととかを考えていたりするんだけど、ねずみ女房だけは何か物足りなさを感じている。窓から外を眺めていたりして、ここではないどこかがあるはずだ、と思いながら暮らしてるとある日ハトが捕まえられてきてねずみ女房との交流が始まる、という物語です。

 

全く違う生き物のハトが捕まえられてやってきて仲良くなる、というのは一見すると異文化交流の話とか、そういった見方をしそうなところですが、ハトと仲良くなっていく中で、知らない世界について話を聞いたりして外の世界に興味を持ったりしつつも、ねずみ女房にはねずみ女房としての家庭での生活があったりして、最終的にはハトを逃がしてあげるんだけど・・、といったシンプルなストーリーの中にも、友情とか女性の生き方とか冒険とか多面的な見方が出来るのが面白いところです。

しかし河合さんはこれを異性との関わりという観点から解説しているのが興味深いところです。ねずみ女房には旦那がいるんだけど、ハトが外の世界について語ることについて感じることが、まるで異性に対するときめきや、なんか危ないんだけど飛び込みたい気持ちとでもいうような、恋愛を連想される感じがよく出ているといいます。

 

ねずみの旦那は女房がハトのところにばかり遊びに行っていることに腹を立て、ねずみ女房の耳に噛み付いたりするというところが不倫を思わせるような感じがしなくもないですね。
最終的にねずみ女房は外の世界があるのにハトが籠のなかに閉じ込められているのはおかしいことだと思って逃がしてあげるのですが、ハトを逃がしたことによって初めて飛ぶということが「そうか、これが飛ぶということなんだ」と身を持って理解します。

 

ねずみ女房は仲良くなったハトを失うことによって初めて飛ぶということを理解しましたが、この本の中でも、人間というのは本当に大事なことが分かる時は、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないか、という河合さんの言葉が特に心に残ったものの一つです。

何かを得ることができる者は何かを捨てることができる者だとか、何かを選択することは他の何かを捨てることだ、などと言いますが、まさにその通りではないかと思います。


私の好きな漫画「進撃の巨人」の好きな台詞の一つにも似たような台詞があったので覚えてるんですけど、進撃の巨人もまさしく失うことによって初めて分かる、そんな漫画ですね。
台詞が使われた場面は全く違いますけど、巨人との戦いで散々仲間を失って、初めて外の世界というものが分かった、あの漫画もこういった本を読んだ後だと色んな解釈が出来る奥が深い漫画ですね。

 

 

ねずみ女房はその後孫も生まれてひ孫も生まれ、見た目はねずみだから一緒なんだけど、ねずみ女房だけはどこかちょっと違った、というんですが、それは異性像を通じて魂の存在を知ったからだという解釈が非常に面白いと思いました。

 

さらにこの物語では、ハトが飛び立つところで同時に家主のおばあさんが天に召されようとしているところが描かれているそうなんですが、それによって、おばあさんが天寿を全うすることをねずみとハトまで協力しているんではないかという解釈に、読んでもないですけどいたく感動しました。

 

生きている一人一人がかけがえがないとか、昔はなんとなく単なる綺麗ごとのように思っていましたけど、河合さんがここでいう、人間が生きていることも、ねずみが生きていることも、ハトが生きていることも全部すごくて、そういうののみんなの繋がりが魂なのではないかという言葉は妙に腑に落ちたというか、理解を超えて納得出来た気がしました。

 

先に紹介した「トムは真夜中の庭で」や「アフターダーク」、「ハゴロモ」のところでも語ったこととも共通するのではないかと思いますが、全然関わりがないように見えるものが、実は繋がっていて魂を導いてくれているのではないか、自分一人を生かすために全世界が動いてくれているのではないか、結局全ては一つではないのか、それらがここで集約されているようでアハ体験のような感じでした。

 

 

この章で最後に紹介されているのが夏目漱石「それから」です。

 

それから

それから

 

 「それから」は大分前に読んだので、その時は単なる不倫の話とか、明治のインテリも現代もなんか似てるなあくらいにしか思ってなかったんですけど、いかに自分が読めてなかったか認識しました。

この頃の時代背景として、主従の関係とか、親子の関係とか友情とか、そういうものが尊ばれて、男女の恋愛などというものは下らない、といった価値観があったそうなんですが、それは東洋思想に基づいているところが大きいそうです。


もちろん西洋でも、家族が大事で、結婚までは純潔を守るべきだ、とか似たようなところはあると思うのですが、西洋は男と女、個人を区別していった先にロマンチックラブがある、でも東洋は魂は全部一緒で、だから好きな女が自分と結婚しようが親友と結婚しようが構わないといった考えがあるというのです。

 

親友の妻となった三千代を奪うわけにはいかないという社会的なペルソナと、心の底では三千代を愛しているという魂の欲求、そういったものはロミオとジュリエットなんかでも描かれていますけど、漱石は自身の体験からそういうことを描いたのではなく、漱石が奪おうとした女性というのは西洋の思想を表しているのではないかというのが面白い見解です。

 

これは加藤典洋さんという作家の方の解釈だそうですが、日本人として生きてきた漱石が西洋の文化に触れることで西洋のものがどんどん好きになってしまう、そこに魂のレベルで罪の意識があったのではないかと、また今まで全く知らなかった読み方を提示されて読み直してみたくなりました。

 

3章では、創作における「異性」について、様々な解釈の仕方が分かって、これから特に恋愛物を見る時の着眼点なんかすごく変わってきそうな気がします。

 

3章の補足の本を備忘録として挙げておきます。

 

 これはユングの奥さんが書いたアニムスとアニマについての本ですが、アニムスもアニマのイメージも四階層あって、一番上は両性有具というのが興味深いです。

 

 

 

 

荒野の狼

荒野の狼

 

 

 

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 

 

Ⅳ おのれをこえるもの

長くなりましたが最後の章です。
この章では自己実現について書いてあります。
自己実現といえば、夢を叶えるとか、なりたい自分になるとか、社会的に成功するとか、世間一般そういうイメージかと思いますが、ここで言われている意味はそれとは違います。

 

まず最初に紹介されているのがユング自伝ー思い出・夢・思想」です。ここまではほとんど文学作品が紹介されてきましたが、やっとユング自身が書いたものが出てきました。ユングは自伝を死後出版するようにして、生きている間はさなかったそうです。

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

 

 

ユングは自分の人生を「私の一生はを無意識の自己実現の物語であったと言ったそうですが、心理学において自己実現はセルフ・リアライゼーション(self-realization)といいます。
リアライズは「理解する、知る」という意味もあれば、「実現する、経験する」という意味もあります。
つまりユングにとっては、自分の無意識の世界にあるものが実現化され、それを生きることが人生だったということです。

 

ちなみにユングは師であるフロイトと決別してしまったことを原因に、精神的に不安定になり、統合失調症になってしまいます。このユングの自伝にはユング統合失調症になって幻覚が見えたり幻聴が聞こえたりした体験が書かれていますが、ユングはそれでも普通に社会生活をしていたというからすごいです。
そうやって自分自身の体験を通じて研究し、克服していく中で、ユングが経験した妄想や幻聴は、昔の世界の宗教書に書いてあることと似ているものが多いことを発見しました。

 

心の非常に深いところの体験は人類共通にあるのではないかということが段々分かってきたんですが、それでユングは無意識の深い部分には人類共通の記憶があるという集合的無意識を提唱するにいたったということですね。
ユングユングの患者たちも、統合失調症から治っていく過程で、何故か絵を描きたくなって絵を描いて、そしたら心がすごく落ちついたそうなんですが、その絵というか図がみんなとても似ていたというから驚きです。

 

深い体験をした人が治っていく時の絵というのは、円形とか十字とかいうテーマで色々絵が出てくるんですが、調べていくとチベットの宗教で使っているという「曼荼羅図」にそっくりだったということを発見します。

 

言われてみると人が自己実現に至る道というのは、瞑想によって自分の無意識の深いところまで降りていって、それを見つめることで悟りを開く宗教にも似ているし、ユングが体験したような精神病などで深い所に行ってしまう体験とも似ているし、麻薬などでトランス状態になった人の体験の話も似ているような気がします。
ユングも自分の体験したことは広い意味での宗教体験と考えられると言っているそうです。

有名なゲームFF7 でクラウドがライフストリームに呑まれ、精神が錯乱してしまったけど、そこからティファの助けを借りて本当の自分を取り戻す、というストーリーがありましたけど、あれもまさにここでいう自己実現だったのかなと今にして思いますね。ライフストリームという世界全体の記憶がある深い領域にまで落ちてしまい自我が崩壊するけど、そこから回復する過程で今まで忘れていた本当の自分が分かる・・・成長するにつれてゲームなんてただの中二ストーリーとか思ってたけど、ゲームのシナリオも結構練られて作られているのかもしれないですね。

 

河合さんの患者さんにも、「机というもの」ではなく「机そのもの」が見えてしまって、錯乱して暴れて病院に連れて行かれてしまった人がいるそうなんですが、私たちは「机そのもの」がなんかのかと言われてもよく分からないですよね。
やはり私たちは言語で規定した「~というもの」といった概念でしか認識していないだけど、本当に「そのもの」が見えてしまう人がいる。
「机そのもの」を見るなんて体験したこともないから分からないし、うっかり「机そのもの」をリアライズしてしまうとそれは大変なことではあるんですが、そういった深い体験こそが自己実現であるというのが、ユングの言っていることだと思います。

 

ちなみにユングが生きている間はユングの言った曼荼羅図のことなどあまり相手にされず、ユングの死後、ベトナム戦争を契機にこれまでの欧米的考え方を見直すという気運が高まったことで、ユングの言っていたことに気づきはじめたそうです。
西洋人は近代合理主義の考えが高まってきた中で自我のことばかりやってきたのを、東洋人は昔から自我よりも心の深い世界を知るということを自然とやってきた。

そんな時代の中で、自我の知らない無意識を探索し、無意識の世界も自我も全部ひっくるめて人格を統合するのが大切だとユングは考え、その統合を図式的に表現すると、曼荼羅図になるということが分かりました。
この自伝では「己を超えるものの」の体験が色々と書かれているそうで、かなり興味がそそられる本です。

今の日本もすっかり西欧化して、無意識だ宗教体験だのいうとちょっとアレな人ということになってしまいそうですけど、確かに自分も習慣でマインドフルネス瞑想の体験に参加したことがあったり、朝晩やっていたりするんですけど、ある時体全身で幸福を感じるというか、まさにただそこにいるだけ幸福に包まれているような感覚になったことがありました。よく生きていること自体が幸せであるとか言いますけど、あれは本当に頭で理解するものなく、体が感じるというか、体験しないと分からないというのはこういうことなんだと少し分かった気がしました。

 

 

ここで触れられている宗教体験については、「聖なるもの」という本により詳しく書いていあるということで紹介されています。

 

聖なるもの

聖なるもの

 

あらゆる宗教の根本にある、自分を超えた体験のことを、「ヌミノーゼの体験」と著者のルドルフ・オットーは定義しているのですが、 結論からいうとあまりに宗教的なことは根源的すぎて、どういうことか説明できない、というのがここで言われていることです。
本当に大事なことは言葉では言えないということですかね。

例えば禅の体験については言葉で言い表せないので「不立文字」というそうなんですが、核心については説明することができないから、なんとか説明しようとその周りのことについてかえって言葉が増えてしまうというのが面白かったです。

 

 

あとは段階的に自己実現について書いていて面白いものとして「十牛図」を紹介されています。

十牛図―自己の現象学 (ちくま学芸文庫)
 

 少年が牛を見つけて、慣らして、牛がいなくなって、人もいなくなって、と紙芝居のような感じで1から10までの絵になっているんですけど、いまいちよく分かりませんでした(笑)
これは西洋でいう錬金術の過程ととてもよく似ているそうなんですが、ユング錬金術について、化学ではなく人が自己実現していく過程を描いたものと考えたようです。

 

 

この章では学術書的な本の紹介が多かったですが、文学作品では、かのノーベル文学賞も受賞した大江健三郎さんの「人生の親戚」が取り上げられています。

 

人生の親戚 (新潮文庫)

人生の親戚 (新潮文庫)

 

 この小説はストーリーだけ聞くと、知的な障害と、半身不随になってしまった二人の息子を健気に育ててたけれども、息子が二人とも自殺してしまい、メキシコに行って聖女のように敬われるけれども、最後には癌で死んでしまうという、悲惨な人生のような話ですが、これがまさに自己実現の話だというのです。
主人公の女性まり恵さんは息子の死のことを「あれ」というそうなんですが、これが最初に出てきた「それ」に呼応していることだと言います。
悪い事ばかり起こっているように見えて、人生を実現していった、何を実現したのかというと「それ」です。
「それ」というのが人生で逃れらない「人生の親戚」だと大江さんは仰っているそうです。

この小説のタイトルからしてまず河合さんが連想したのが、夏目漱石「道草」だといいます。あの道草も、主人公の不愉快な親戚というか、養父の爺さんが出てきますが、そんな嫌な爺さんと関わりなんて持たなければいいしそう思っているのに、何故か自分でも馬鹿なことをしていると分かっていて家に招いたりお金を渡してしまったりしてます。

そういう馬鹿ばっかりしている、それが自己実現だというのがすごく大事なことだと河合さんは仰っています。

 

自己実現について補足の本として「紅水仙という本も紹介されています。

 

紅水仙

紅水仙

  • 作者:司 修
  • メディア: 単行本
 

 こちらは私生児として生まれて、母親を恨んで生きてきた作者が、母の死後母の人生について書いたという本です。子供に恨まれながら生きた母について語ったこの本について河合さんの紹介を見ているだけでもなんだか心に染み入ってくる気がします。

 

自己実現っていうと最初にいったように、いかにも夢を叶えるとかそういった解釈を普段していそうなものですが、この章を読んでちょっと固定観念を変えられた感じがします。
けど夢を叶えてプロスポーツ選手になるとか歌手になるとか、起業して金持ちになるというのも当たらずとも遠からずな気がしますね。

社会的に成功して一見華やかに見える人達も、実は色々苦悩しているでしょうしね。せっかくなりたかったはずのプロになったのに周りはとんでもない才能の持ち主ばかりいて自信もなくすし、金は貰っていても結果を出さいないといけないプレッシャーばかりかかって楽しくないし、死ぬほど練習しても年を取れば衰えて若いやつらにどんどん抜かされるし、とか脚光を浴びるだけではなく、そういった苦悩も数多くあり、そんな中で見えてくる世界こそ自己実現というのではないかと考えたりもしました。

 

あと最後にこちらも児童文学の作品でシャーロットのおくりものです。

 

シャーロットのおくりもの

シャーロットのおくりもの

 

 おのれを超えるものとして、死と再生が描かれている本です。
私たちは皆、私の命なんて言っているけど、本当は命というものは私を超えているものなんです、という言葉とても心に残りました。
これまでにも触れられてきた、色んなものが協力して私の命が成り立っているんではないかという話ともちょっと繋がってきそうな話です。

 

この章のもっと読んでみたい人のための本もいずれも面白そうなものが並んでいます。

 

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

  • 作者:白洲 正子
  • 発売日: 1992/03/04
  • メディア: 文庫
 

 

 

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中沢 新一
  • 発売日: 2004/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

脳と仮想

脳と仮想

 

 

 最後に後書きを加藤典洋という方が書かれているんですが、こちらもとても興味深いことが書かれていました。
動物は栄養溜めこむ「ストック」をするが、植物は「フロー」である。人間の本質、生き物の本質、そして心の本質は「フロー」にある。
解剖学者の説として、肉体は体壁系(皮膚・神経・筋肉)と内臓系(内臓・消化器・呼吸器・血管)に分けられるが、体壁系(脳)より内臓系(心)の方が宇宙とそのまま繋がっていて広くて深い。大脳機能を失った人間を植物人間などというが、人間の体を手袋みたいにひっくり返してみると、その姿は樹木になる。子宮が月齢に呼応しているのもそう。脳ではなく内臓こそが心であると。

腸は第二の脳というのは有名な話ですが、この後書きにも惹きつけられましたね。
読書は知識をストックするためのもの、という認識をする人も多いのではないかと思うが、読書はそこに流れているもの「フロー」に触れること、そのことは”魂”と呼ばれることもある。

うーん、分かるようで分からないような、でも最初から最後まで、どんどん新しく世界観を広げてくれるような、そんな本でありました。