テレビを捨てて本を読もう

ただの本の感想、紹介、アウトプット用のブログです

ジブリ再上映の波に乗って「千と千尋」を見たので、ユング心理学的に考えてみる

こんにちは、タイトルの通り、ジブリ再上映の波に乗って千と千尋の神隠しを見て来ました。

再上映なのに新作を抑えて観客動員トップを席巻してるとか、スクリーンで見れるジブリは今しかないとか各方面で賑わってるみたいだし、恥ずかしながらジブリは「風立ちぬ」を見に行ったくらいで、実際ほとんど映画館で見たことなかったっていうのもあってこれは行かねばと、ついミーハー心をそそられて見に行ってしまいました。

皆さん散々言われていることかとは思いますが、やはり劇場で見るジブリは素晴らしいですね。DVDとか金曜ロードショーでも何回も見ているはずなんですけど、優れた作品というのは何度見ても新しい気づきが出てくるし、大画面で見るとそれだけ入ってくる情報量も違いますね。久石譲の音楽も鳥肌立つくらい素晴らしいし、絵の一コマ一コマ細部にどれだけこだわって描いているんだろうとか、アニメなのに実写以上に温かみや生々しさが感じられるような、息遣いまで伝わってきそうなジブリ作品の偉大さが一層身に染みて感じられるようです。

 

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まあこれも先日NHKの再放送でやってた「プロフェッショナル」に大分影響されているんですけどね。ブログタイトルはテレビを捨てろとか言ってる割にまあテレビも見てるんですけど、ああやって実際どんな風に映画を作ってるのかっていう予備知識があるとまた見方も変わりますね。

 

何が良いかっていうと宮崎駿作品は手放しで賞賛しても大体反対されることがないからいいですね。
まあ実際良いものは良いに違いないんですけど、宮崎駿作品ってだけである種の聖域みたいになってますからね。


特にジブリ作品の主人公の女の子達は皆本当に血が通っているようでとてもかわいいです。
千尋も美少女として描いてないと駿氏もどこかで公言していたかと思いますが、見ているうちにやけにかわいく見えてくるんですよね。
二次元には違いないんですけど溢れ出てくるこのリアリティみたいなのはなんなんでしょうね。
ジブリヒロインのかわいさについては先人たちが既に語り尽してくれていると思うのでこれ以上は広げないことにして、ちょっと真面目な方面から語ってみたいと思います。

 

 

基本的にこのブログは本ことを書くブログにしようと思っていたんですけど、最近読んだ本の影響でユング心理学の考え方にハマっているので、ちょっとそういう観点から「千と千尋」を考察してみたくなって映画のことも書いてみることにしました。

 

 ユング心理学をかじると異世界に行ったりするファンタジー系の作品についても見方が広がったりするので中々面白い学問です。
私もこの記事で書いた本に影響を受けました。

 

honwoyomimashou.hateblo.jp

 

実のところ私はジブリの中では千と千尋はそんなに好きな方ではなく、どっちかというとラピュタみたいに分かりやすい冒険活劇とか、もののけ姫みたいにおどろおどろしい戦争みたいなことやってる方が子供心には面白かったような記憶があるんですけど、大人になって改めて見てみると、これはすごく奥行きが深い物語だってことに気づかされるし、良い作品というのは一粒で何度でも美味しいっていうのはこういうことですね。

 

初めて見たのが小学生の頃だったので、作品に込められた意味とかは当時はあまり理解してなくて、それでもなんとなく雰囲気だけでも惹きこまれる世界観とかは流石だと思うんですが、それが大人になってから見ると、細部の色んな設定やらストーリーなんかも漠然とだけどこういうことかな、ってのを考えるようになって、見る年代によって面白さが変わってくる。今ままであまり真面目に見ていなかったのがすごく勿体なかったなと思いました。

 

今回考察するのは作品の中のこれはこういうことを意味している、と言いたいのではなく、単なる私の妄想です。
千と千尋については駿氏のインタビューとか作品についての解説もあまり読んだことがないし、公式な見解とは全く違うところもあるかもしれませんが、暇人の書いている戯言なのでご容赦ください。

 

でも創作に対する解釈というのは、作っている側も絶対的な正解を用意しているわけではなくて、受けてがそうだと思えばそれでいい、っていうのは最近感じるところです。
創作する側にとって表現したいことはあっても、受けてがこれはこうなんでないか、と受け取ればそれでいいし、作り手もある程度受け手に委ねてるというのは多かれ少なかれあるんではないかと思います。

この千と千尋の神隠しという物語では何を言っているのかといえば、千尋という少女の成長の物語という人もいれば、仕事について描いているという人もいて、人間の本質について描いた物語という人もいるでしょう。色んな見方はあると思いますが、別にどれが正解でもいいんではないかと思うし、全部ひっくるめて正解ともいえると思います。
まぁあまり勝手な解釈をしても駿氏から怒られるかもしれませんが・・・

 

 

1.創作における異世界とは無意識の世界への旅である

なのであくまでこういう見方をしても面白いんじゃないか、という程度のものなんですが、じゃあ私は今回千と千尋をどう見たのかというと、「魂の発見、魂の循環」ですかね。

魂とかいうと急に胡散臭くなってくるのが自分でも分かるんですが、順を追って語っていきましょう。
まず異世界に行くというのは、ユング心理学的見方をすると、自分の無意識の世界に入っていくということです。

千尋が両親と一緒にトンネルをくぐって、テーマパークの跡地と思わしきところに迷いこんだところが、そこは神々の保養所のようなところだった、というのがこの映画の導入部分ですが、今回はこの神々の世界を千尋自身の無意識の世界という考え方をします。

 

先の記事でも書いていますが、無意識とは心理学者フロイトが提唱した考えで、簡単にいえば私たちが普段自分の考えだと思って意識しているものが”自我”、反対に普段は意識しておらず目に見えない部分が”無意識”です。
私たちが普段意識している自我は私たちの心の氷山の一角に過ぎず、その水面下の無意識こそが私たちの行動を司っているというのがフロイトの考えです。

無意識のことを深層心理とか潜在意識という言い方をする場合もあれば、厳密にいうと別物ともいえるんですが、一番身近なものとしては、私たちが寝ている時に見ている夢が無意識を投影したものですね。


つまりこの映画は千尋の夢の中での出来事、壮大な夢オチという解釈の仕方も出来るかと思います。
ただそれじゃあまりにも面白くないし、ありきたりな解釈になってしまうのですが、たとえ夢の中、無意識の中での出来事だとしても、それは千尋の中で本当に起こって、現実に千尋を心に変革を起こしたと考えていきます。
フロイトとその弟子ユングも、目に見える自我の世界だけでなく、目に見えない無意識の世界に目を向けることの重要性を説いてきました。


こうして心の世界の中で色んなものが出来てきて千尋の成長に繋がっていくんですが、そもそも成長とはなんなのか、それを考えたいと思います。

 

2.千尋はなぜ小学生の女の子という設定なのか

 

成長とは何か、一応ググりました。

人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。「子供が成長する」「ひなが成長する」「経験が人を成長させる」

 

そもそもこの映画は、駿氏の知人の女の子をモデルにして作られたというのをどこかで見たことがありますが、結果的にこの映画は子供の成長について表現した素晴らしい見本になっているのではないかと思います。

成長とは文字通り体が成長することでもありますが、体の成長とは心の成長でもあります。体と心は切り離して考えるものではなく、体の組成というのは精神の組成と密接に関わっているといってもいいでしょう。
自分の性格が行動を作るのではなく、行動が性格を作るともいうように、体の変化が精神の変化にも影響を与える部分は間違いなくあるでしょうね。

 

子供は第二次性徴期という大人への入り口を経ることで肉体だけでなく心も大規模な変動の時期を迎えることになります。
第二次性徴というのはそれこそ世界の変革ともいうべき巨大な出来事です。
すごく率直な話になって申し訳ないのですが、女の子の場合早ければ小学校高学年くらいから第二次性徴が起こり始め、つまり子供を作れる大人の体へと近づいていくことになります。
つまり人間の成長というのを描くにあたって、女の子は初潮を迎える前後に渡って、色々な体の組成の変化と同時に様々な精神的な組成の変化も迎えなければいけないということで、千尋くらいの年齢の女の子は主人公として適任だったのではないでしょうか。
まあ男の子でもよかったのかもしれませんが、たまたま駿氏の知り合いの子供が女の子だったというのもあるんですかね。


ただ、ここで肉体的成長と精神的成長のミスマッチが起こりやすいのが現代社会の特徴でしょうね。私も就職活動とか転職活動で自身の成長がなんだのバカの一つ覚えのように成長という言葉を何度も使ってきたんですが、成長というのは本来そう簡単にできることではない、非常に大変なことだと思うのです。
特に子供が大人に成長する過程というのは、体はともかく精神的な面で子供と大人を分けるものは何なのかというとそれこそキリがないのでここでは深く突っ込まないようにしますが、この映画は子供の発育について、現代の核家族の限界を描いているといっても過言ではないでしょう。

 

これも先に挙げた記事でも書いたことなんですけど、心理学者の河合隼雄氏は、現代の核家族は、核家族をやり遂げるだけの力を持っていないのに、核家族になっているから、そこがとても難しい、という風に仰っています。

実際に千尋は、両親が豚に変えられてしまうというメタファーを通して、両親が自分を庇護してくれる絶対の存在ではないということを突きつけられることになります。
両親も大人も別に完璧な人間じゃないと分かる、むしろ人ですらなく豚ですからね。
大人の汚さ、醜さみたいなものを両親の中に発見してしまったということですかね。

ともかく親もただの人に過ぎない、ということに気づくのが千尋の年齢は早いか遅いかはともかく、それも大人になる過程で通過しなければならないことです。
どんな完璧に見える親でも何かしら欠点や弱さはあるものです。そういった子供が大人になっている過程で必要な色んなステップを踏んでいくのがこの映画です。

昔は一つの屋根の下に両親だけじゃなく祖父母もいて、親戚の叔父さんなんかも出入りしていたりして、両親以外の大人から日常的に色々と教わることもあったはずですが、特に最近の都会っ子あたりはそういう体験も昔に比べるとあまりないでしょう。

だからといって私も両親または妻の両親と一緒に暮らして子育てをするかといわれるとそれは嫌ですけどね。
今の社会ではそれがスタンダードであり、それに合わせて社会の在り方も変容していくと思うのでのでそれはそれでいいんですが。
どちらが良いか悪いかの問題ではないですが、今は子供の内的な発育を促す大人との触れ合いは少ないだろうなということです。


そんな中千尋は幼いながら”仕事”を通じて成長します。
やはり人を成長させるものは何かといったら仕事ですよね。
それはまあ当たり前なんですが、ここで描かれるのは両親でない大人が導いてくれることです。

昔の田舎の子供は、例えば農家だったら田植えや収穫の手伝いとか、家業をやっている家だったらそういう手伝いをしていく中で従業員や関係者など地域のおっさんおばさんと触れ合ったりして、大人の社会というものを垣間見ていたかと思いますが、最近は本格的に働くといえば早くても高校生になってバイトをするぐらいなので、もっと低い年齢で社会的体験をするということを減っているように思いますね。

この映画で千尋を導いてくれるといえば主に釜爺とリンですね。
ハクはまた後で別に語りたいのでちょっと置いときます。
私も田舎の温泉旅館に住み込みでバイトしたこともあるんですけど、この油屋はまさにああいう温泉旅館感がそのまま出てるようですごいですね。

別に温泉旅館に限ったことじゃないと思いますが、番台みたいな嫌なオッサンやその他不愛想な従業員もいる中で、一見ぶっきらぼうなようでしれっと助けてくれる釜爺や、口調はきついところもあるけどなんだかんだで世話を焼いてくれるリンとか、あぁこんな人いるいる、って感がすごく出てますよね。
そのリアルと二次元の境界のような絶妙なステレオタイプなキャラクターのさじ加減がジブリ映画は本当に上手いなと思います。

そしてああいう古い日本的職場社会って、陰湿な面やブラックな面も勿論あるんですが、長く働いていれば最初は嫌な人だった従業員も、いつの間にか仲間になっていたりする。なんというか日本の会社らしさがすごく出ていていいなと思いますね。

千尋が油屋で働く理由も、両親を元に戻して現実の世界に帰るため、というやむない形ではありますが、自分の欲のためではなく、あくまで両親を救いたい、という他者への貢献です。それを通じて結果的にお客様への貢献にも繋がり、油屋の利益にも繋がり、他者に認められることで自立心を確立していくという成長の在り方がテンプレ的に示されています。

仕事を通じた成長というのはもっと本質的で深い部分もあると思うんですが、ここではテーマから外れるのでこの辺でやめておきます。

子供の成長のためには、同年代の子供との関係も大切ですが、「導き手」となる大人の存在の重要性を上手く表現しているな思ったのが油屋でのことです。


3.”母性”=湯婆婆と銭婆?、”千尋のシャドウ”=カオナシ


釜爺やリンが優しい大人、だとすれば怖い大人の代表格は湯婆婆ですね。
もちろん子供が大人になる過程で怖い大人という存在も欠かせません。
童話のヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女を彷彿とさせるような、ザ・魔女というキャラクターですが、千尋らの前では冷徹な経営者としても面もあり、子煩悩な母親(坊が息子なのか孫なのかはよく分からないんですが)という面もあり、実に人間の多面性を象徴したようなキャラクターです。

この湯婆婆は怖い大人としての役割もありますが、また心理学でいうところの”グレートマザー”の象徴のようでもあります。
母性とは生命の根源ともいうべき絶対的な善の象徴のような面もありますが、一方、子供を愛するあまり掴んで離さず押しつぶしてしまうような負の面も持っています。
坊を溺愛するあまり軟禁してしまうところはまさにグレートマザーの負の面であり、千尋が坊を導きグレートマザーからの解放という役割を果たすとともに、千尋自身も母性に目覚める=つまり大人になるステップを踏んでいるというのも面白いところです。
駿氏はジブリヒロインを作る上で母性を意識しているというのをどっかで見た覚えがありますが、本作でもそれは発揮されていますね。

ついでに坊は一体なんなのかというと、”千尋の肥大化した自我”というところでしょうかね。
子供は得てしてわがままな面もありますが、あの巨体も千尋の子供としてのわがままな部分が大きくなってしまったもののように見えます。
千尋はそんなに両親に甘やかされてる感もないですが、逆にあまり構ってもらえず、一人っ子ゆえ一人で過ごすことも多く、もっと両親に構って欲しいという欲求が肥大化してしまったというような千尋の心理が、湯婆婆に軟禁されている坊の姿に投影されていると想像もできますね。

承認欲求の投影といえばカオナシもまさにそんな存在という風にも見えますがカオナシについては後で触れましょう。
ただ千尋は油屋での体験などを経て、子供としての自分を一歩引いたような立場から接することができるようになります。千尋自身が母性に目覚め、自我である坊を導くようになるというのはこれこそ成長というものでしょうね。


また、湯婆婆の双子の姉という設定で銭婆というキャラクターも出てきますが、ここでは湯婆婆も銭婆も同一のものとしてみなすことにします。
湯婆婆がグレートマザーの負の面とすれば、銭婆は正の面でしょうね。
グレートマザーの正の面といえば、全てを受容してくれるような絶対的母性の象徴です。

千尋は無意識世界のより深い領域、つまり沼の底へと潜っていくんですが、そこで出会うのが母性の象徴でもいうべき銭婆です。
銭婆もてっきり怖いのかと思ってましたけど、なんというかまさに田舎の実家にいるような、温かいお婆ちゃんって感じですよね。
自分の無意識の中で汚いものを見たり苦しい思いをしたり色んな体験もしたけど、心の奥深くには良いものも悪いものも越えた全てを受け入れてくれるような母性の原型の記憶があるという象徴が銭婆ということでしょう。

母親っていうと、自分も小学生くらいになってくると、よくカリカリして怒っていたり、うるさくなってきたりしてあまり母性というものを感じなくなっていったりするものだと思うんですけど、お婆ちゃんはというと何か全てを肯定してくれるような優しいイメージってあると思うんですよね。
もちろん意地悪なお婆ちゃんを見て育った人もいるとは思うんですけど、この映画では、母性の原風景的な象徴として、田舎の実家のお婆ちゃん、というイメージで銭婆が描かれている気がします。

千尋がお婆ちゃん、って実の祖母のように呼んだり、最近の子供らしく田舎のお婆ちゃんの家に行くような経験がなかったのかもしれないとも伺わせるようなところもあるんですが、思わず呼んでしまうお婆ちゃんというのがそこはかとない安心感の象徴のようです。

映画を観た人なら多くの人が感じたのではないかと思いますが、千尋の母親は正直これまでのジブリのお母さん達とは違ってあまり”母性”を感じないですよね。
別に千尋の母が千尋に対して愛情がないとかそういうんではないと思うんですけど、これも現代の核家族におけるの母性の欠落のようなものを表現してるようにも見えました。やはり子供の成長には母性というのは不可欠なものです。

千尋自身、生まれた時は母から愛情を注がれて、その記憶の原型が無意識の奥にある、ってことなんでしょうけど、銭婆との出会いは千尋にとっての「母性の発見」といえるでしょう。
これは千尋自身が母性を思い出すことでもあり、坊たちと行動を共にして母性に目覚めることでもあり、また、銭婆というグレートマザーがカオナシという心の闇を受け入れてくれることもそうです。

カオナシについてもこの映画では重要なファクターかと思いますが、カオナシは人間の色んな欲を象徴した、千尋の心の闇ともいうべき存在ですね。
カオナシは子供の頃見た時はなんなのかよく意味が分からなかったんですが、大人になってから見ると結構分かりやすいですね。
なんであんなに汚い場面も描くんだろうと思っていたんですが、人間の心の汚い面を描きたかったんでしょうね。

千尋カオナシとの対峙を経たあとで自身の無意識領域の深いところへと潜っていきますが、無意識へと潜る過程では自分の心の闇、見たくもない部分も通過しなければならないことを表しているのではないかと思います。
子供も大人になる過程で汚いものや醜いものも見なければなりません。
そんな自分の中の嫌な部分、認めたくないような部分、つまりユング心理学でいう影(シャドウ)がカオナシではないでしょうか。

人の無意識は時に汚かったり見にくかったり、見たくもないようなネガティブな想念もたくさんある一方、それに打ち勝てるような美しいものもあります。

 

4.ハク=千尋の魂の投影

心の中の美しいもの、例えば釜爺もいった「愛」ですね。
愛とはいってもこの映画での愛はロマンスとかそういう安っぽい意味の愛ではありません。
千尋カオナシという自分のシャドウを克服して、沼の底という無意識の奥底まで行くことが出来たのも、ひとえに両親のため、ハクのためなんですけど、このハクというキャラクターは色んな見方ができるキャラクターだと思います。

千尋とハクの関係はあまりはっきりと恋愛という描かれ方をしていないし、実際ロマンスを描いたわけでもないと思うんですが、これは千尋の恋という見方をするのも一つの楽しみ方なのかなと思います。
もちろん実際にハクに恋しているわけではなく、ハクはあくまで象徴です。

千尋も年頃だし、そろそろ好きな男子の一人や二人いてもいい歳だと思います。転校する前の学校では密かに想いを寄せる男子もいたかもしれません。先ほどは恋を安っぽいだなんて言ってしまいましたが、恋も人が大人になる過程で通らなくてはならない出来事です。
もう叶わなくなってしまったけど、それを昇華させるために無意識の中に現れた異性像がハク、という考え方です。
心の世界でのハクとの出会いと別れは、千尋の淡い失恋を癒すための無意識下での作用という一面もあるかもしれません。
最後のハクの「振り返ってはいけない」という台詞も、過ぎたことに囚われるな、と言う風に解釈できるかもしれません。


また、無意識の中に出てくる異性というのは、自身の魂を投影したものである、というのがユング心理学の考え方です。
男は男らしく、女は女らしく、というジェンダー的な考え方を打ち破ろうという潮流は近年色んなところで発生しておりますが、男の中にも女性としての心、女性の中にも男性としての心を持ち合わせているというのはユングの時代から言われてきたことです。
この自分の中の異性像というのは、男の中の女性像はアニマ、女性の中の男性像はアニムスといいます。

また、夢の中に出てくる異性だったり、好みだと感じる異性は自分の魂を反映した相手であるともいいます。まあそこは生物学的観点から見たら遺伝子の相性とか色々あるのかもしれませんが、ユング心理学的にいうとそういうことです。

しかしここでは千尋の好みの男性像がハクとか、千尋の中の男性的部分がハクということではありません。まあもしかしたらそういう部分もあるのかもしれませんが。
なぜ人が恋をしたり異性を求めるのかというと、それはもちろん動物としての生殖的本能といえばそうですが、ユング心理学の観点では、自分の魂を反映している相手が異性であり、その異性を大切にすることが自分の魂を大切にすることであるからです。
いつの時代もロマンチックな恋愛物が好まれるのは、やはり人は無意識に自分の魂を探求したいということもあるのかもしれません。
千と千尋について別の言い方をすれば、ハクとの出会いは自分の魂との出会いともいえるでしょう。

また無意識の中の異性像には4つの段階があると、ユングの妻であるエマ・ユングが記しています。
千尋は女性なので千尋にとっての異性像はアニムスですが、

第一段階「力のアニムス」
第二段階「行為のアニムス」
第三段階「言葉のアニムス」
第四段階「意味のアニムス」

と以上の4つの段階があります。
各段階の細かい説明は省きますが、低い段階はより原始的な男らしさや逞しさを象徴していますが、高い段階にいくほどより知性的な意味合いを帯びていきます。
ハクがどこの位置するかというと、やはり第四段階の意味のアニムスでしょうね。
アニマもアニムスも、第四段階にもなると、両性有具的な神様のようなイメージとして表れるといいます。

創作において神や精霊など神秘的存在は中性的なキャラクターとして描かれることも多いですが、こういった人の無意識も作用してのこともあるかもしれません。
ハクも男らしいというより中性的な美少年だし、そして何より神様です。

そして千尋が忘れていた記憶を呼び起こして、自分の名前、そして命の意味を教えてくれます。
2でも人の成長とは何かについて触れましたが、真の成長というのは、命の意味を知ること、つまり魂の存在を知ることではないかと思うのです。

 

5.命は流れ、循環するもの



異世界に迷い込んだ千尋が、紆余曲折の末に昔助けられた川の神様に出会い、思い出す、というのが、ストーリーそのままに最も直接的な解釈でもいいと思うんですが、そこに込められた意味というのは、無意識の奥底で忘れてしまっていた大切な思い出を思い出すということは自身の魂の発見でもあり、自分という人間は世界の色んなもの全てが繋がって生かされているということに気づくことではないか、と思いました。

先に挙げた河合隼雄氏の本の感想の中でも書いたんですけど、その中で氏が、人も動物も生きていることが全部すごくて、そういう全部の繋がりが魂ではないか、ということを仰っていたことに感銘を受けたんですが、この千と千尋の神隠しという映画も、まさにそういうことを表現しているのではないかと思います。

千尋はハクの正体を思い出しますが、一方でハクであった川はもう埋めたてられてしまっていて存在しないという残酷な真実も知ることになります。
でもハクは別れ際にまた会える、と言っています。
これはやはり万物に魂が宿るという八百万の神的な思想であったり、命の循環という考えでしょうね。

 

ハクの正体が昔千尋が溺れた川であり、その時ハクが千尋を助けてくれことを思い出すところがこの映画の一番の見せ場でもあると思うんですけど、なぜハクが川の神様なのか、海でもなく山でもなく川なのか、って考えると、やっぱり川が一番”流れ”というものを表しているような感じがするからですかね。
何せ龍にもなれるし、川っぽいです。

 

川は埋め立てられてしまっていたとしても、その水は海に流れ込んで、蒸発して大気になり、どこかを巡っているでしょう。
私たち一人ひとりに魂があり、また動物や草木、その辺の石ころ一つ、あらゆる存在にまで魂が宿っているなら、結局全ては一つの魂です。

忘れてしまったと思っていても、思い出は必ず無意識の奥にあるし、無くなってしまったと思ったものも、死んでしまった人も、必ずあなたの中に存在しているから大丈夫だよ、ということをこの映画では言いたいのかな、というのが久しぶりに見て思ったことですかね。

主題歌の「いつでも何度でも」そのカップリングの「いのちの名前」もタイトルもそうだし、歌詞も改めて聞いてみるとまさにそういうことを歌っているような気がしてきました。

 

結局色んな要素があり過ぎて何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきたし、ユング心理学あんまり関係ないところも出てきてしまったんですが、それだけジブリは奥が深くて幅広いテーマを含んでる、ってことですかね。
子供の成長を通じて人間のありのままの姿や心の深淵について描いていて、ついには命や魂の在り方の真理にまで迫っている、そんな素晴らしい映画であると思います。

 

 

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