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【感想・考察】村上春樹 スプートニクの恋人/世界はなんでもあちらとこちらに分けなくてもいいんじゃないかという話

村上春樹の長編作品を時系列順に読破しよう数年前から過去作から順番に読み進めているのだが、中々最新作まで行きつけない。
一つの作家の作品を集中的に読むというのはその作家の思考に近づくという意味では有効だと昔何かの本で読んだ気がするけど、ある程度長期的に読むこともまた、より作品に対する解釈の仕方や読み方というものが身に付いてきて、深く楽しめるような気もする。

そもそも元々読書が得意な方でもなく単に読むスピードが遅いし、他に気になる作家も出てきたりして結局時間がかかってしまうというのもあるのだが、数年スパンで一人の作家の作品を読んでいると、自分の読書脳とでもいうべきものがちょっとは進歩しているような気がしてきて、読むのも楽しくなってくる。

まだ到底村上作品を解釈し切れるほどの読解力には程遠いが、読後の思考整理ということで考察を書き殴りたい。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

 

 今回の作品スプートニクの恋人村上春樹作品の中でもどちらかというと影が薄い方ではないかと思う。
別に通ぶりたいわけではないが、現実が舞台で恋人が死んだり消える系の作品だとノルウェイの森が一番有名どころで代表作という扱いかと思うが、個人的には後発の国境の南、太陽の西や、今回のこのスプートニクの恋人の方が個人的には好きである。
ノルウェイの森を読んだのは数年前になるので当時は面白いと思えるだけの読解力がまだなかっただけなのもあるかもしれない。

 別に短いわけではないのだが、この一つ前の長編、ねじまき鳥クロニクルがかなり物量のある作品だったために、その後だと思わず拍子抜けしそうになる。それでも読後はしばらく頭の中を色んな考えが巡る濃密さがある。
なんとなく村上春樹作品には熱狂的なファン、ハルキストのイメージや、某Amazonレビューなどもあり元々は敬遠気味で読まず嫌いだったのだが、実際初期から順番に色んな作品を読んでいると、読者を惹きつける不思議な魅力があるというのも分かってきたという感じがする。

 

1.”あちら”と”こちら”

今回も村上春樹ならではの”あちら”と”こちら”の物語だが、あちらとこちらとはあくまで”あちら”と”こちら”なのだと思う。意識と無意識、現実と非現実、理解と非理解、生と死、光と闇、男と女、など村上春樹の作品中には色々なテーマがあちらとこちらとして示されているが、そもそも物事はあちらとこちらに二項対立で区別できるものではないんじゃないかというのが村上氏が色んな作品を通して言いたいことではないかと思う。

 以前河合隼雄氏との対談本で、村上氏自身が、作者の解釈はあくまで作品に対する解釈の一つに過ぎない、ようなこと語っていた。
河合氏も作者の言ってることが一番正しいなんてそんな馬鹿なことはない、と答えていて、今にして思うと文学という世界では当たり前のことなのかもしれないが、読んだ時は青天の霹靂だったのを覚えている。
ねじまき鳥クロニクル」についても、「自分でも何を書いたのかよく分からない」とも語っていたことも印象的だった。

 今作で印象に残った台詞の一つに、「理解というものは、常に誤解の総体に過ぎない」というものがあるが、これはまさに上記で村上氏が言わんとしていることや、引いては村上作品において表現してきたことを象徴した台詞のように思う。
作者自身ですら作品を理解して作ってるわけではないし、ましては我々人間が理解していると思っていることなんて、所詮は脳が作り出した錯覚に過ぎないともいえる。

 作中で”記号”と”象徴”の違いについての話が出てきたが、私たちは便宜的に言語によって物事を記号として区分しているが、それも本当にどこまで絶対的に区分できるものなのかも疑わしい。

男と女とは言うが、近年はどこまでが男でどこまでが女かということもますます疑わしくなっている。センシティブな問題も孕んでいるのであまり深くは触れないが、染色体の違いによって定義されるのか、本人の心によって定義されるのか、生物学的には男と言われても性転換手術をすればどうなのか、戸籍上は決まり事に則って性別は決定されるのだろうけど、本当のところでの定義というのは曖昧なものだと思う。

海辺のカフカは実は先に読んでいるのだが、その中に大島さんという性的に複雑なキャラクターが登場する。この人物もまさに記号だけで定義しきれない複雑性を象徴しているのではなかろうか。本作でもあえて表面上はレズビアンの物語なのかなんなのか曖昧にしてあるのもそういった狙いがあるのではないかと思う。 

そういった言葉によって定義し切れない複雑性を、あえて”あちら”と”こちら”として曖昧な表現を取っているのが村上作品の特徴である。あちらを選ぶのもこちらを選ぶのもその人の解釈次第だし、結局はあちらもこちらも”誤解の総体”でしかない。

人間はお互い一時は理解し合えたつもりになったとしても結局は、理解しているつもりという誤解で成り立っており、つまり誰しも”あちら”と”こちら”に断絶された孤独な存在というのが、ミュウや主人公の語っていることでもある。つまりスプートニクの恋人」とは我々人間全てを指していることではないのだろうか。

しかしそこに希望を示すのが、実は”あちら”と”こちら”の境界なんかないんじゃないかというのがラストシーンでの主人公とすみれの台詞だと思う。

「物事と物事の間に、そして存在するものと存在しないものの間に、僕は明瞭な違いを見出すことができない」「あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身」「ぼくらはたしかにひとつの線で繋がっている」、というように、皆記号的にはっきりと区別される存在ではなく、誤解によって成り立った曖昧な存在、象徴のような曖昧な存在だけど、だからこそあちらとこちらに区別されるのではなく、孤独ではなく一つの線として繋がっていられるんじゃないかということが、本作で村上氏が表現しようとしたことなんではないかと思った。

 

 2.すみれと”ぼく”

村上作品の主人公はその時々で固有名詞があったり、年齢や職業などの設定に違いはあるが、おそらくここまでの作品では全て一人称が“ぼく”(漢字で僕の時もあるが本作ではひらがなでぼく)で、大体孤独感や虚無感を漂わせた青年である。

これまでの作品では主にぼくが主観となった主人公であり語り手でもあったが、本作では、ぼくが思いを寄せる女性「すみれ」が主人公であり、ぼくは語り手という立場から物語が始まる。村上作品としては今までになかった試みだと思う。序盤はすみれについての物語のような書かれ方をしているが、段々とぼくも入り込み、最終的にはすみれが消えてぼくの物語となる。

本作の物語を大きく二つに分けるなら、これはすみれの物語の二つに分けられると思う。
あえていうなら、すみれがあちらで、ぼくがこちらである。

ただ、先にあちらとこちらは区分できないものではないかと書いたし、あちらとこちらを分けるものは何なのか、曖昧になってよく分からなくなるところが村上作品における狙いでもあると思うのだが、人によって色々な解釈できる性格が強い構成になっているのが村上作品でもあり、そこはどういう見方をしてもいいと思うということで、一応便宜上“あちら”と“こちら”に分けて進めたい。

“こちら”を「現実、理解、意識」的な世界、“あちら”を、「非現実、非理解、無意識」的な世界といった見方で読むと、ぼくが好意を寄せている女性すみれは一回り以上離れた美魔女に恋をし、結果色々あって恋破れ失踪してしまった、という奇妙な三角関係そのままのストーリーが“こちら”的な物語だと思う。

ただやはりそれだけではないメタファーがあちこちに隠されているのが村上作品で、そのメタファーが隠されている”あちら”の世界をどう解釈するかというのが、村上作品の魅力であり人気の理由でもあるだろう。

現実的な見方をすればもちろんすみれも一人の人間として存在しているのだろうが、非現実的、無意識的な世界といった曖昧な観点から読み解くと、先に挙げたラストのすみれの台詞からも推測できるように、すみれは”ぼく”自身、ぼくから分裂したものがすみれ、という考えで見ていきたい。
つまり同一人物であり、主人公が生み出した架空の人格、ということである。
分裂を起こしている人物として本作にはミュウがいるが、主人公自身もおそらくは分裂を起こしている。ミュウについてはまた後で考察したいと思う。

 すみれはぼくの想い人という今作のヒロインにあたる立ち位置の人物であるが、これまでの作品でいうヒロインというよりは、どちらかというと初期三部作の鼠やダンス・ダンス・ダンスの五反田君のような親友に近いポジション、主人公の半身ともいえる存在のような印象を受けた。
これまでの村上作品を見ても、主人公やヒロインが精神分裂を起こしていると思わしき物語は数多くある。

すみれの人物像としては、美人でもなければ世間知らずで不器用、生活力も乏しい小説家志望の女という、悪く言えば典型的なダメ人間のようだが、実際小説家の卵としては非凡な才能がある。主人公はそんなすみれに惹かれている。

 本作の主人公ぼくには一応”K”という固有名詞がある。これは夏目漱石の小説こころの登場人物Kのオマージュなのかそこはよく分からない。
主人公の人物像としては、内向的ではあるがすみれとは対照的に外面はよく、仕事にも熱心でそつなくこなし、異性関係も充実している。だが村上作品の例に漏れず心にはどこか鬱屈とした孤独感や虚無感を抱えている。

 世間的には問題なく充たされているように見えるが空虚さを感じているぼくと、対して現実的能力に乏しいが小説への情熱に充たされているすみれはある意味対照的な存在のようでもあるが、小説という趣味を通じ、恋愛感情や友情という繋がりを超えた関係を築いている。なぜ主人公はこれほどすみれに惹かれるのか、それはすみれが主人公の持たないものを持っている半身だからかと思う。

他の記事でも挙げているように、村上作品はユング心理学における意識と無意識を上手く表現しているというが、人間誰しも自身の無意識下に異性を持っており、ここではその異性がすみれだと解釈したい。

ユング心理学では自身が大切にしたいと思っている魂の反映が異性として表れるというが、すみれはその主人公が求める欠落を反映した存在のように見える。
欠落を感じながらも現実を無難に生きる主人公に対し、すみれはビートニクに傾倒し浮世離れした生活し、小説の執筆にのめり込んでいる。
つまりは主人公の潜在的欲求を表した無意識的存在のように見える。

また主人公が自分について語るに際し、「自分とは何か?」について掘り下げて語っている。そこからは主人公が客観的で洞察に優れた人間だということが読み取れるが、それはそういった主人公の人間像と別に、作品を読み進めていくと分かるように、主人公自身、自分のことを理解しているわけではない、全ては誤解の総体でしかなく、何が存在し何が存在していないのか分からない、というすみれの存在自体も曖昧なものという示唆に繋がっていく。主人公が自分を客観視しているように見えるが、ある意味自分自身が分からなくなっている、精神が分裂しているということの可能性である。

主人公自身が語るように、誰しも自分自身をフィクションの中に身を置いているというのは一般的事実でもあるが、主人公は完全にフィクションの世界に没入してしまっている、主人公自身、すみれというフィクション=安全装置の中に身を置いているのではないだろうか。
これがあちら的=つまり非現実的な見方からの解釈である。

主人公はすみれと話している時こそ自分の存在を感じることができ、すみれと一つになりたいと強く感じている、何故ならそれは本来自分自身であるからだ。しかし自分自身、すみれと交わることは出来ない。
それは一度失ったものは取り戻せないということの暗示でもある。喪失と再生は村上作品のメインテーマでもあるが、すみれの消失は、分離してしまった自らの一部を取り戻したいということは、失って手に入れることが出来ないもの、それでも手に入れたい物への人間の普遍的欲求を表しているとも言えると思う。

しかし最後にはすみれとの再会を匂わせる形で終わる。人間はそもそも初めから失うことを決定づけられているかもしれない。しかし色んなものを失ったと思っていても、失うことによってこそ手に入れることがあるのかもしれない、ある意味そういった希望も示してくれているのが、本作の結末が意味していることではないかと思った。

心理学者のユングは自らも統合失調症(精神分裂)になり、そこから回復する過程で人類共通の集合的無意識の存在に気づいたという。
本当に大切なものは失わないと分からない、というのは心理学者河合隼雄氏もいくつかの著作で語っているところでもある。
自分自身の半身であった存在を失う、というのは村上作品でよく見られるストーリーだが、本作の主人公も自身の半身であるすみれを失ったものの最後には戻ってきた。これは今までの作品と比べても新たな境地だと思うし、また村上作品らしく様々な解釈の余地のある結末である。




ミュウは何者か

ミュウとは何者なのか。作中で提示されているミュウの人物像といえば、22歳のすみれより17歳年上なので39歳くらい、韓国籍だが日本で育ち語学にも堪能、上品な身なりだが飾らない美人、家族で経営している貿易会社と別に個人的に事業もやっている、というまさにハイステータスを絵に描いたような女性である。

とりあえずミュウという名前にどういう意味があるのか色々調べてみたがよく分からなかった。自分の世代だと幻のポ○モンがまず頭に浮かんでしまうのはやむないのだが、それはともかく英語では猫の鳴き声がmew(ミュー)という風に表現されるようだ。本作では猫も一つのキーワードとして出てくるので、これが一つ気になるところ。
あとは単に韓国姓のミンさんなんかを崩してミュウになってるとかだろうか。

名前については何か意図があるのかはよく分からないが、すみれとミュウの関係性についていうと、これをLGTBQとして解釈することも出来るだろうが、読み進めていくうちにすみれのミュウに対する感情は、最初はただ漠然と恋をしていたものが、次第にすみれの欲求は母性の欠落から来ているということが見えてくる。

ミュウは言うなれば本作における母性の象徴であると思う。あくまで象徴的に母性なのであって、記号、つまり実の母というわけではないと思う。ぼく=すみれとして見ても、二人とも母性を求めている。ぼくの恋愛の相手が皆年上の人妻やパートナーがいる女性である、という描写は主人公が何かしら母性に対してのコンプレックスを抱いているということを匂わせている。

おそらく実際の家庭の愛情の欠落か何かであろう。そういった欠落の代償としてすみれという存在を作り、ミュウとの恋の物語として仕立てようとした。
しかし主人公もミュウに抱いた感情が、恋愛感情ではないがそれによく似たもの、と別れ際に気づく。フロイトユングの心理学の世界でも母親は最初の恋人といったり、母体回帰の願望を持ったりするように、ミュウへの感情は母性への渇望であったと思う。
海辺のカフカもそうだったが、この辺りから母親を探す物語、というのが村上作品の一つのテーマにもなっているようだ。

ちなみにこの舞台となっている島はおそらく村上氏がヨーロッパ周遊中に訪れた「ハルキ島」かと思われるが、自身の名前のついた島を舞台にしたのに何か遊び心以上のものがあるのかは分からない。

ミュウがあちらとこちらに分かれたように、東京とギリシャの島もまた、あちらとこちらという関係になると思う。つまりギリシャのハルキ島に行くのはフィクションの出来事だ。
おそらくミュウは主人公の「ガールフレンド」である人妻、ニンジンの母と同一人物という見方も出来る。あちらの世界=ギリシャの島でのすみれの消失、ミュウとの別れが現実におけるガールフレンドとの別れとも繋がる。

ミュウは紺のジャガーに乗っており、ガールフレンドは赤のトヨタセリカに乗っているとう描写があるが、色というも村上作品ではあちらとこちらを示す手がかりになる。「国境の南、太陽の西」でもヒロインの島本さんはネイビーなど濃いブルー系の色の服、現実側で会う女性は赤系の服、という描写がなされていた。人間の可視範囲にある中でも対局にある赤と紫や紺系の色によってあちらとこちらを対比しているのだと思う。

また、ミュウの分裂に関しても、観覧車からもう一人の自分がフェルディナンドというラテン系の男と事に及んでいるのを見たというのはまさに精神分裂ともいうべき描写だが、これが意味するところはなんなのか。
ミュウが語る観覧車での出来事が意識的なものか無意識的なものかは分からないが、これも自らを守る安全装置というフィクションの中に身を置いているということに他ならない。

今進めている解釈だとそもそもミュウも主人公のフィクションであるわけなのだが、ミュウの分裂が意味していることといえば、一つは先に述べたように主人公自身が分裂を起こしていることの示唆でもあると思う。

また、すみれとミュウの物語としてみると、フェルディナンドというラテン系の男性の特徴はすみれのハンサムな父親と実に一致している。そこから読み取れるのはすみれの父とミュウはなんらかの適切でない関係にあった、ということだろうか。
ここから見えるのは主人公は自分の親が不倫をしていたのではないかと考えることも出来るし、また主人公自身がガールフレンドと行っているただ肉欲を充たすための不倫について語っていることとも取れる。

このエピソードではミュウがそのことによって本当に精神が分裂してしまったのか、ただの作り話なのか分からないが、先日読んだ村上氏訳の「心臓を貫かれて」の中にあった「時としては人は自分が一番奥に隠している秘密を守るための口実として作り話をすることがある」という台詞が印象的だった。

これは家庭環境が人にどのような影響を与えるかということを真に迫って描かれたノンフィクションだが、本作スプートニクの恋人は村上作品にしては珍しく、人間の問題点が家庭に発しているのではないかということが示唆された作品であるので、もしかしたらこの辺りから影響を受けたのかもしれないと想像した。

これまでの村上作品では、登場人物が抱えている「弱さ」とは漠然とした弱さであって、羊を巡る冒険で鼠が言ったような、遺伝病のような絶対的な弱さ、いわば人間としての根本的な弱さといった描かれ方をされてきたように思う。

それが本作で村上氏の新たな解釈だと思ったのは、人間の欠落は家庭に起因しているのではないかという示唆が所々見られるような気がする。それを次で考えてみたいと思う。

 

 

ニンジンについて

先にあげた分裂というのは、文字通り精神が分裂しているという意味合もあり、それとは別に人の二面性とかそういうのを表しているようにも取れる。表向きは貞淑な妻が、裏では教え子の教師と不倫をしていることなど。

村上作品でしばしば不倫も一つのテーマとして扱われる。
国境の南、太陽の西」では妻と子供がいながら不倫する男、「ねじまき鳥クロニクル」では妻に不倫される側の男、本作では子供を持った女性と不倫する男が描かれている。特に本作では不倫をしている親の子供という目線が入っているのが特徴的なところである。

主人公もすれみもミュウも、家庭というか自分のルーツになんらかの欠落を抱えている。これまでの作品で主人公の生い立ちというものが描写されることはまりなかったように思う。「国境の南」の主人公が一人っ子であったり、「ねじまき鳥クロニクル」の綿谷一家が問題のある家庭という描写がなされていたり、この頃から家庭について触れられるようになってきた。ただ今作のように、主人公自身が家族の誰とも心を繋がり合わせることが出来なかったと明白に吐露するのは珍しいことではないかと思う。

主人公は家族の誰とも心を通わせることが出来ず、自分を血の繋がっていない貰われた子だと想像することもあった。唯一好きだった飼っていた犬が小学5年生の時に死んだ。
すみれも早くに母親を亡くしており、本当の母親を求めている。そして小学2年生くらいの時に飼っていた猫が消えてしまった。

すみれとミュウの猫の話、そして主人公の犬が死んでしまったことは、おそらく家庭に関するトラウマのメタファーか何かかと思う。
トラウマとは言っても虐待や暴力など大袈裟な話ではなく、誰しも成長する過程で、両親や教師など、大人に対して失望のようなものを感じる瞬間はあると思う。大人が立派で信頼できる庇護してくれる存在ではなく、大人も所詮欠落した一人の人間であるということに気づくというステップがある。

シスターがミュウに語った猫に関してのエピソードでも、ミュウは大人に対する信頼というか、そういったものが分からなくなってしまったのだろう。こういった些細な日常的の出来事が自分にとって決定的な影響を与えたりすることもある。

主人公やすみれにとってそのトラウマがどのようなエピソードか分からないが、ミュウの猫の話に対し、すみれも猫の消失という象徴的な話に置き換えて返した。これも自分の本当の話を「猫」というメタファーに置き換えて隠したと解釈してもいいと思う。何か両親や家庭に不信や失望を抱くようなことがあったのか分からないが、何か語りたくないトラウマ的な出来事を猫の消失として表した。
主人公の犬が死んだこともこれと繋がってくる。これは実際に事実であり飼い犬の死に際し主人公は本当に家族に失望したとも取れるが、何かトラウマ的な出来事を犬に置き換えて話したのかもしれない。

ニンジンの存在もその両親に失望した子供であり、ニンジンもまた主人公自身ではないかと思った。
村上作品の主人公は青春を卒業し切れない青年として描かれていることがよくあるが、本作の主人公もまた大人になり切れない子供の心を抱えているといえるだろう。
現実に戻りスーパーの事務室で尋問されている場面、いかつい警備主任が主人公に対して持った違和感、あれは主人公とガールフレンドの関係に勘付いているのもあるだろうし、主人公がまだ子供のままだと見抜いているのかもしれない。

ニンジンもそんな主人公の子供の心を反映した存在ではないかと思った。両親に構ってもらえず、母親は母であるよりもいつまでも女でありたいが故に担任の教師と関係を持っている。ニンジンはそういった大人に対する失望ゆえに心を閉ざしてしまった。自分の心と向き合ってもらない大人への失望である。
主人公も何らかのトラウマを心の底に抱えている。ニンジンが盗んだ保管庫の鍵も心のトラウマか何かを封じ込めている鍵のように見えた。きっと誰しもそういった心のトラウマを心に押し込めているということは多かれ少なかれあるはずである。

 

終わりに

 色々と好き勝手に解釈してみたが、本作は村上作品の中でもかなり想像の余地を残した作品かと思う。こういった文学作品にありがちな、読む人によってあらゆる解釈が出来るというのは、裏を返せばなんとでも解釈できる、という感じで昔は好きではなかったが、「理解というものは、常に誤解の総体に過ぎない」というすみれの台詞に代表されるように、そもそも作品に正解を作ることなどできないことを改めて体感した。この小説は様々なテーマを包括して境界をなくしてしまった、それだけ奥深い作品だと思う。