テレビを捨てて本を読もう

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半沢直樹と明智光秀、今年話題の二人の義の男に学ぶ処世術

テレビを捨てようとか言ってる割に恐縮なのだが、時にはテレビドラマなども見ている。

見ているとは言っても基本録画したものを後から見るスタイルなのでリアルタイムで見るということはほとんどない。
忙しくて麒麟がくるに至ってはひと月遅れくらいで追いかけている始末である。
なのでここ最近の話などは抜けているのだがご容赦いただきたい。

何となく半沢直樹のような話題のドラマを見るのはミーハーぽくて嫌なのだが、確かに俳優陣の演技力とか含めこういう王道の懲悪勧善ものは見ていて痛快で面白い。
一期はまだ組織内の抗争の中にこういう嫌な上司いそうってリアリティ感とか、正義執行の裏にも主人公半沢の復讐心も背景にあったりして、そういう正義だけでは割り切れない部分も魅力だったのだが、二期はなんか役者の演技力を使った顔芸や台詞芸、とにかく憎たらしい悪役を使ってブッ倒してやるというエンタメ方向に振り切ってなんだかなーといったところである。

あくまで個人の感想であって別にドラマのレビューをしようというわけではない。
二期も二期で十分面白いとは思う。

麒麟がくるについてはそこまで話題になってるのかどうか知らんけど、とりあえず自分が今年見ているドラマがたまたまこの二つだったのと、タイプは違えど己の「義」を貫き通す二人の主人公に共通点があるような気がしたのでちょっと比較してみようと思った次第である。

 

 

 

変化の大きい現代の荒波を生きる半沢直樹と、激動の時代であった戦国の世を駆け抜けた明智光秀、時代も性格も違えど卓越した人材には普遍的な共通点というものはある。

それを自分なりに整理していきたいと思う。

 

半沢と明智光秀(以下十兵衛)、今年を代表するドラマの主役だが、通ずるところもあり、異なるところもある。
まずは両者の違いというところから探りたい。

まずは半沢が人の上に立つ器、自らの信念を形に変え主導していく不世出のリーダーとすれば、十兵衛はリーダーを支える優れた補佐役だ。

半沢は大義のため、社会の為、組織の為なら自らが傷つことも他者を破滅させることも厭わず、時には家族よりも仕事を優先する。十兵衛も時代が時代なだけに、家族よりも仕える主君を優先するところはあり、どちらも日本男児的サムライの精神を持っている。

極端にいえば、半沢は十兵衛よりむしろ信長のような革命家といえる人物だろう。
半沢は銀行という旧態依然とした組織に属しているものの、その中で古い悪しき慣習を破壊し、時代に則った合理的な組織に改革していくパイオニアだ。
それだけの行動力、決断力を持っているだけに、多くの信奉者を生み出し、時には敵だった者すら味方に付けるカリスマ性がある。

ただ一方、苛烈すぎるが故に敵も数多く生み出してしまうタイプだ。ドラマだから悪者を成敗してめでたしめでたし、だがこれが現実なら打ち倒してきた者達の恨みを買い、報復されてしまうような事態が目に見える。

汚いものも時には利用し、清濁併せ持つというのが器用な世の渡り方だが、半沢にはそれが出来ない。自分の正義と相反するものには、時には自身も犯罪スレスレのようなことまでして徹底的に戦い完膚無きまでに打ち滅ぼす、50対50はなく0か100かの男なのだ。

 

対して十兵衛はどうか。
そもそも明智光秀は主君である信長を裏切った挙句秀吉に敗れ処刑されているので、成功者として学ぶべきなのかはよく分からない。
なのでここで取り上げる明智光秀は本ドラマにおけるキャラクターとしての十兵衛だ。明智十兵衛がどういった人物であったか記録自体が少なく、その生涯には様々な憶測がある。

空白の部分は色々とエンタメ性や物語性を重視して脚色されており、このドラマにおいての人物像としては自分から天下を取りに行こうという男ではない。これといった出世欲などは持たず、ただ世を平らかにすることを望み、その実直さによって不思議と人望を集める。その顔の広さで何かと器用に立ち回り、陰ながら歴史の転換点に立ち会ってきた人物というのがドラマにおけるキャラクターだ。

とりあえず目上の人物にはほとんど「ははっ!」しか言ってないような気がするし、難しいことを聞かれるとだんまりで受け流したりしているんだが、現代とは違い無礼があればクビどころか本当に首を落とされかねない時代においても、例え主君であっても必要とあらば言うべきことはズバズバ言う。

そしてその馬鹿正直さゆえに何かと大物から気に入られやすく、自然と信頼関係を築いていく。
基本的に十兵衛は半沢と違い率先して喧嘩をするようなタイプではない。自分の義に反することがあれば敗戦濃厚な道三について高政に逆らい、故郷を追われることにもなるが、どこからしら事なかれ主義というか、皆丸く収まっていればそれでいいじゃないかというところがある。

主君から理不尽なら仕事を押し付けられたり、何かと気に食わないことはあってもそれを受け入れ、ただ自分の出来ることをこなすところは如何にも現代のサラリーマンを彷彿とさせる。
とはいえどちらもタイプは違えど、自然と人を集め、周囲の助けによって難局を乗り切っていく。

現代は人類史上で最も科学技術の進歩が急速で変化の激しい時代というが、戦国の時代であってもその時代を生きた当人にとってはその時代が激変の時代の最前線である。
どんな時も自らの正義を迷いなく執行し道を切り開いていく半沢と、自分のやるべきことに思い悩みながらも、義に従って生きる十兵衛。

半沢のように歯に物を着せぬ物言いでバッタバッタと悪を斬る人間は傍目には魅力的だが、中々あそこまでの人物になれるものではない。
もちろん十兵衛も曲がったことは許せない信念を持った人物であり、恵まれた出自に優れた人格、能力を持った逸材には違いないが、上司や友人に挟まれ頭を悩ますところや、先行きの分からない時代で自らの行く末を案じる姿などはむしろ現代に生きる私たちに近いものがある。

半沢のようにどれだけ打たれても倒れないバイタリティと進み続ける信念があればよいが、大多数の人間はそうは行かないと思う。
我々のような普通の人間が参考にすべきは、十兵衛のようにフォロワーシップに優れた、十兵衛のような人物かもしれない。基本的には聞き上手で相手の意見には逆らわないが、ここぞという時には自分の意見をハッキリと物申す。

いずれにせよ、半沢にしても十兵衛にしても、いざという時には自分の信念に裏打ちされた意見を言うことが出来るかどうか、リーダー型であろうがフォロワー型であろうが、それは必要なことである。

 

  • 現場主義

半沢も十兵衛も現場をよく見る。
半沢が一期の第一話で訪ねた工場の実情をよく観察して、会社の価値を見定める場面は印象的である。
ドラマでは銀行員というよりもはや探偵物か刑事物みたいになっているが、字面の数字だけでなく融資する会社の現場をよく見て判断する、半沢の仕事人としての在り方を表すシーンはよくある。データ野郎の福山との対決などは象徴的だ。

二期でも、八方塞がりに追い詰められたような時でも、アンジャッシュ児島演じる秘書笠松や、白井議員など直に会い人となりを観察し、味方となってくれると判断することで、黒幕箕部幹事長を出し抜く逆転劇を見せた。

十兵衛に関しても、当時はIT機器などもちろんない時代なので、今以上に対面でのやり取り、現場を見ての判断ということが重要だったには違いない。
織田勢と和睦する代わりに帰蝶を織田に嫁がせるべきか悩んだり、主君である道三とその息子高政の間で板挟みになったり、何かと色んな場面で難しい選択をさせられる立場に追い込まれる。

最近でも上洛したい朝倉義景としたくないその家臣の間で、どちらの肩を持つべきか悩まされる場面があったが、実際に町に出て市井の人々の話を聞くことで、今の朝倉家は上洛できるような状態ではないと判断した。

十兵衛が一度足利義昭を迎えることを否定したのにやっぱり意見を翻したり、最初から信長を頼ることを選んでいれば話も拗れず、義景の息子阿君丸が毒殺されたりすることもなかったんじゃないかと思わなくもないのだが、誰しも常に最善の判断を下せるわけではないし、その結果どうなるかというのは誰にも分からない。

決断に迷った時でも、頼りにすべきは自分の目で見て、耳で聞き判断したことなのだ。

 

  • 不遇の時代

どんな人生であれずっと順風満帆というわけにはいかない。
出世街道を進んでいるように見える半沢も一期の土下座騒動の後、中央セントラル証券へと左遷されるという一見不遇の扱いを受ける。
実際のところこれは大和田を失墜させたことによって反感を買った敵対派閥から半沢を守るためと、外から銀行を見ることによって学ばせるための中野渡頭取の親心でもあった。しかし半沢自身そのことを左遷の時点で理解していたかどうかは分からないが、少なくとも二期の一話時点では納得がいっていなかったようだ。

とはいえ、子会社に出向ということになっても、半沢は腐ることなく目の前の仕事には真摯に取り組む。結果より広い視点で銀行を見ることが出来るようになり、晴れて銀行にも戻ることが出来た。

十兵衛に関しても、長良川の戦いにおいて劣勢の道三についたため負け戦となり、結果故郷の美濃を追われることとなり、落ち延びた越前では日の目を浴びることなく十年も寺子屋で子供に学問を教えて過ごした。

麒麟がくるはあくまで史実がベースなので、十兵衛が全部解決してめでたしめでたしとはいかない。自分の意志とは関係なく動いていく現実の世の中では、時には落ちぶれてしまう時もある。今のコロナ禍の時代などはまさに自分の意志だけではどうしようもない力が働いている。多かれ少なかれ人生は浮き沈みがあるものだ。

しかし十兵衛はそんな自分の力だけではいかんともしがたい時でも、何かしようと信長の元にかけつけたり、足利義輝のために奔走したりする。結果的にはそれらの行動が実を結んだわけではないが、そうした一生懸命な行動により周囲の者達も感化され、人の信用を集めていくことに繋がる。

そうして得た信用により信長から仕官の声をかけられたり、足利義昭からも頼られたりして、立身のチャンスを掴んでいくことになる。自分の思い通りにならない沈んだ時期でも、何か出来ることやろうという意志と行動を続けていれば、誰かがそれを見てくれているものだ。それが思わぬところからチャンスに繋がったりする。人生というものは予測不能なのだ。

予測不能な人生の中でも日々自分の義に従って生きる、それが道を拓くことに繋がる。
半沢直樹は大団円を迎えたが、麒麟がくるは一体どのような結末を迎えるのか。
歴史を知っている我々からすると悲劇的な終わりを予想するが、その中にどんな希望を示してくれるのか。今から待ち遠しくもある。